港区の名所 人気観光スポット 新橋 虎ノ門 浜松町 芝公園 六本木 麻布十番 赤坂 青山 白金.. 東京都港区の魅力

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東京タワー
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目次

東京都港区はこんなに素敵なところ

東京タワー、旧新橋停車場、増上寺、東京モノレール浜松町駅、旧芝離宮恩賜庭園、愛宕神社、芝東照宮、菊池寛実記念 智美術館、大倉集古館、NHK放送博物館、ホテルオークラ東京、慶應義塾大学、綱町三井倶楽部、有栖川宮記念公園、国立新美術館、森美術館、六本木ヒルズ、麻布台ヒルズ、赤坂御用地(赤坂御苑)、迎賓館赤坂離宮、赤坂御所(東宮御所)、乃木神社、赤坂氷川神社、豊川稲荷東京別院、アークヒルズ、サントリーホール、サントリー美術館、根津美術館、秩父宮ラグビー場、東京都立中央図書館、青山霊園、東京ミッドタウン、ザ・リッツ・カールトン東京、国立科学博物館附属自然教育園、東京都庭園美術館、東禅寺、泉岳寺、高野山東京別院、レインボーブリッジ、台場公園、お台場海浜公園、港区立伝統文化交流館、フジテレビ本社ビル..

こちらでは東京都港区の名所、人気の観光スポット、観光地、美しい景色、絶景、公園、神社、お寺などのパワースポット、文化遺産、歴史遺産、美術館、博物館、歴史的建造物、モダン建築などの特徴と魅力を動画、画像とともにご紹介します。

 

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カートくん
カートくん

ねえねえボンゾくん、東京都の港区ってどんなところなの?おすすめの名所や人気の観光スポット、素敵な場所を教えてくれる?

ボンゾくん
ボンゾくん

港区には素敵なところがたくさんあるよ! 東京タワー、旧新橋停車場、増上寺、東京モノレール浜松町駅、旧芝離宮恩賜庭園、愛宕神社、芝東照宮、菊池寛実記念 智美術館、大倉集古館、NHK放送博物館、ホテルオークラ東京、慶應義塾大学、綱町三井倶楽部、有栖川宮記念公園、国立新美術館、森美術館、六本木ヒルズ、グランドハイアット東京、麻布台ヒルズ、赤坂御用地(赤坂御苑)、迎賓館赤坂離宮、赤坂御所(東宮御所)、乃木神社、赤坂氷川神社、豊川稲荷東京別院、アークヒルズ、サントリーホール、サントリー美術館、根津美術館、秩父宮ラグビー場、東京都立中央図書館、青山霊園、東京ミッドタウン、ザ・リッツ・カールトン東京、国立科学博物館附属自然教育園、東京都庭園美術館、東禅寺、泉岳寺、高野山東京別院、レインボーブリッジ、台場公園、お台場海浜公園、港区立伝統文化交流館、フジテレビ本社ビルなんかがおすすめだね。それじゃあカートくんと一緒に港区のこと、詳しく調べてみようね!

*港区の美味しいもの、お店、お土産をこちらの記事で紹介しています。

新橋、汐留、虎ノ門、浜松町、大門、芝公園、芝、三田エリアの名所、人気の観光スポット

東京タワー

 

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東京タワーの特徴

高さ333メートルを誇る東京のランドマーク。展望台からの景色と夜間のライトアップが魅力的。

東京タワーは、東京都港区芝公園にある総合電波塔で、正式名称は日本電波塔。1958年(昭和33年)12月23日竣工。高さ333メートルを誇る東京のランドマーク、展望台からの景色と夜間のライトアップが魅力的な観光名所。2018年度グッドデザイン賞受賞。創設者は前田久吉で、日本の「塔博士」とも称される内藤多仲らが設計しました。
昼間障害標識として、頂点より黄赤色(インターナショナルオレンジ)と白色を交互に配した塗装となっています。テレビおよびFMラジオのアンテナとして放送電波を送出、また東日本旅客鉄道(JR東日本)の防護無線用アンテナとして緊急信号を発信するほか、東京都環境局の各種測定器なども設置されています。

出典 東京タワー公式サイト ウィキペディア

所在地:東京都港区芝公園4丁目2−8

地図↓

東京タワー · 〒105-0011 東京都港区芝公園4丁目2−8
★★★★★ · 展望台

旧新橋停車場

 

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旧新橋停車場の特徴

旧新橋停車場は、1872(明治5)年に開業した日本最初の鉄道ターミナル「新橋停車場」の駅舎外観を当時と同じ場所に出来る限り忠実に再現しました。展示室では、お雇い外国人が使用した西洋陶磁器、改札鋏や工具類などの金属製品、汽車土瓶など発掘調査で出土した遺物を常設展示するほか、床の一部がガラス張りになっており、開業当時の駅舎基礎石の遺構を見ることが出来ます。また年に3回の企画展を開催しています。

出典 旧新橋停車場 鉄道歴史展示室公式サイト アイエム公式サイト

所在地:東京都港区東新橋1丁目5−3

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増上寺

増上寺の特徴

増上寺は、浄土宗の七大本山の一つです。
酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建され、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与してきました。

開山から六百年

増上寺は、明徳四年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって開かれました。場所は武蔵国豊島郷貝塚、現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地と伝えられています。室町時代の開山から戦国時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展していきます。

徳川家の菩提寺

安土桃山時代、徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正十八年、1590年)。家康公が当時の住職源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依したため、と伝えられています。慶長三年(1598年)には、現在の芝の地に移転。江戸幕府の成立後には、家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。三解脱門(さんげだつもん)、経蔵、大殿の建立、三大蔵経の寄進などがあいつぎ、朝廷から存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣(じょうしえ)の勅許もありました。家康公は元和二年(1616年)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿しました。

六人の将軍が眠る徳川将軍家墓所

増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所が設けられています。墓所には各公の正室と側室の墓も設けられていますが、その中には家茂公正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮様も含まれています。現存する徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)を入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されています。

勝運を招く黒本尊(くろほんぞん)

恵心僧都(えしんそうず)源信の作とも伝えられるこの阿弥陀如来像を家康公は深く尊崇し、陣中にも奉持して戦の勝利を祈願しました。その歿後増上寺に奉納され、勝運、災難除けの霊験あらたかな仏として、江戸以来広く庶民の尊崇を集めています。黒本尊の名は、永い年月の間の香煙で黒ずんでいること、また、人々の悪事災難を一身に受けとめて御躰が黒くなったことなどによります。やはり家康公の命名といわれています。

江戸~明治

江戸時代、増上寺は徳川家の菩提寺として隆盛の極みに達しました。
全国の浄土宗の宗務を統べる総録所が置かれたのをはじめ、関東十八檀林(だんりん)の筆頭、主座をつとめるなど、京都にある浄土宗祖山・知恩院に並ぶ位置を占めました。檀林とは僧侶養成のための修行および学問所で、当時の増上寺には、常時三千人もの修行僧がいたといわれています。寺所有の領地(寺領)は一万余石。二十五万坪の境内には、坊中寺院四十八、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」とうたわれています。

明治~大正

明治期は増上寺にとって苦難の時代となりました。明治初期には境内地が召し上げられ、一時期には新政府の命令により神官の養成機関が置かれる事態も生じました。また、明治六年(1873年)と四十二年(1909年)の二度に渡って大火に会い、大殿他貴重な堂宇が焼失しました。しかし明治八年(1875年)には大本山に列せられ、伊藤博文公など新たな壇越(だんのつ)(檀徒)を迎え入れて、増上寺復興の兆しも見えはじめました。大正期には焼失した大殿の再建も成り、そのほかの堂宇の整備・復興も着々と進展していきました。

昭和~平成

明治・大正期に行われた増上寺復興の営為を一瞬の内に無に帰したのが、昭和二十年(1945年)の空襲でした。しかし、終戦後、昭和二十七年(1952年)には仮本堂を設置、また昭和四十六年(1971年)から四年の歳月を三十五億円の巨費を費やして、壮麗な新大殿を建立しました。平成元年(1989年)四月には開山酉誉上人五五〇年遠忌を記念して、開山堂(慈雲閣)を再建。さらに法然上人八百年御忌を記念して平成二十一年(2009年)圓光大師堂と学寮、翌二十二年に新しく安国殿が建立されました。現在、焼失をまぬがれた三解脱門や黒門など古くからの建造物をはじめ、大殿、安国殿、圓光大師堂、光摂殿、鐘楼、経蔵、慈雲閣等の堂宇が、一万六千坪の境内に立ち並んでいます。

出典 増上寺公式サイト

所在地:東京都港区芝公園4丁目7−35

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東京モノレール浜松町駅

 

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東京モノレール浜松町駅の特徴

モノレール浜松町駅は世界貿易センタービルに隣接したモノレールビルに位置しています。頭端式ホーム2面1線を有し、東側から乗車ホームと降車ホームに分かれています。東京モノレールの駅の正式名称は「モノレール浜松町」であり、ホーム上の駅名標や列車内の液晶ディスプレイ表示でもそのように記載されていますが、駅や列車内の自動放送、行先表示、発車標では単に「浜松町」とされるなど、案内により表記が混在しています。

東京モノレール羽田空港線

東京都心と東京国際空港(羽田空港)を結ぶアクセス路線として、モノレール浜松町 – 羽田空港第2ターミナル間を普通列車では約23分、空港直行列車である「空港快速」では約18分で結んでいます。1964年秋の東京オリンピックの開催で、日本国内外からの羽田空港利用客の都心へのアクセスの改善を目的として建設され、10月10日の東京オリンピック開会式前の9月17日に開業しました。この路線は跨座式モノレールで、日本国内の現有路線では唯一アルヴェーグ式を採用しており、営業最高速度 80 km/h はモノレールとして国内最速。ほとんどの部分が高架線ですが、昭和島 – 整備場間(海老取川トンネル)、天空橋駅付近(羽田トンネル)と新整備場 – 羽田空港第2ターミナル間(羽田空港トンネル)は地下線となっています。東京モノレールはかつて日立グループの一員だったという歴史的経緯から、すべての車両はJR東日本グループ入りした後も主要株主となっている日立製作所製です。

出典 東京モノレール公式サイト ウィキペディア

所在地:東京都港区浜松町2丁目4−12

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旧芝離宮恩賜庭園

 

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旧芝離宮恩賜庭園の特徴

小石川後楽園と共に、今東京に残る江戸初期の大名庭園の一つです。回遊式泉水庭園の特徴をよくあらわした庭園で、池を中心とした庭園の区画や石の配置は、非常に優れています。明暦(1655~1658年)の頃に海面を埋め立てた土地を、延宝6年(1678年)に老中・大久保忠朝が4代将軍家綱から拝領しました。忠朝は屋敷を建てるにあたり、藩地の小田原から庭師を呼び庭園を造ったと言われています。庭園は「楽壽園」と呼ばれていました。

庭園風景

庭園は、幾人かの所有者を経たのち、幕末頃は紀州徳川家の芝御屋敷となりました。明治4年には有栖川宮家の所有となり、同8年に宮内省が買上げ、翌9年に芝離宮となりました。離宮は、大正12年の関東大震災の際に建物や樹木に大変な被害を受けました。翌年の大正13年1月には、皇太子(昭和天皇)のご成婚記念として東京市に下賜され、園地の復旧と整備を施し、同年4月に一般公開しました。また、昭和54年6月には、文化財保護法による国の「名勝」に指定されました。

出典 東京都公園協会公式サイト

所在地:東京都港区海岸1丁目4−1

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愛宕神社

 

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愛宕神社の特徴

1603年、慶長8年、江戸に幕府を設く徳川家康公の命により防火の神様として祀られました。慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立されました。祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものでした。その後江戸大火災で全焼してしまいましたが、明治10年、9月に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建がなりました。大正12年9月1日、関東大震災に、昭和20年5月24日帝都大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失しましたが、昭和33年9月、氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至ります。

愛宕神社は、標高26メートルの愛宕山の山頂にあります。これは23区内で自然の地形としては一番高い山。春は桜、夏は鬱蒼と茂る樹木の涼と蝉時雨、秋は月と紅葉、冬は雪景色と四季折々の表情で、訪れる人の目を楽しませています。オフィス街に位置することもあり、境内はお昼休み時は近隣で働く人々でにぎわいます。都心の中にぽつりと残ったオアシス的な存在として人々の安らぎの場となっています。

出典 愛宕神社公式サイト

所在地:東京都港区愛宕1丁目5−3

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芝東照宮

 

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芝東照宮の特徴

元和3年(1617)、徳川家の菩提寺である増上寺の境内に創建されました。還暦を迎えた徳川家康公が自ら命じて彫刻させた等身大の寿像がご神体として祀られています。都心に位置しながら豊かな自然に囲まれており、連日多くの参拝者が訪れています。

出典 芝東照宮公式サイト

所在地:東京都港区芝公園4丁目8−10

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菊池寛実記念 智美術館

 

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菊池寛実記念 智美術館の特徴

当館設立者で現代陶芸のコレクターであった菊池智(とも、1923〜2016)のコレクションを母体に、現代陶芸の紹介を目的として、2003年に港区虎ノ門の閑静な高台に開館いたしました。この地は、智の父である実業家の菊池寛実(かんじつ、1885〜1967)が晩年の活動の拠点とした場所であり、美術館の設立も父の余光によるとの想いから、菊池寛実記念と称したものです。当館は現代陶芸を中心に、優れた造形作品をご紹介する様々な展覧会を開催しており、さらに陶芸の枠にとどまらず、現代工芸の発信地となるべく活動を続けております。

出典 菊池寛実記念 智美術館公式サイト

所在地:東京都港区虎ノ門4丁目1−35 西久保ビル 智美術館 1階

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大倉集古館

 

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大倉集古館の特徴

明治から大正時代にかけて活躍した実業家・大倉喜八郎(1837〜1928)が、明治35年(1902)に自邸内に開館した大倉美術館を前身とし、大正6年(1917)に財団法人化した私立美術館です。現存する日本最古の私立美術館であるとともに、日本で最初の財団法人の私立美術館です。喜八郎が生涯をかけて蒐集した日本・東洋各地域の古美術品と、跡を継いだ嫡子喜七郎(1882~1963)が蒐集した日本の近代絵画などを中心として、国宝3件、重要文化財13件及び重要美術品44件を含む美術品約2500件を収蔵しています。

出典 大倉集古館公式サイト

所在地:東京都港区虎ノ門2丁目10−3

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NHK放送博物館

 

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NHK放送博物館の特徴

1956年に、世界最初の放送専門のミュージアムとして、“放送のふるさと”愛宕山に開館しました。日本の放送が始まってから90余年、放送は、ラジオからテレビへ、さらに衛星放送、ハイビジョン、デジタル放送へと大きく進歩・発展してきました。放送博物館では、こうした放送の歴史に関するさまざまな実物展示をはじめ、だれもが自由に利用できる「番組公開ライブラリー」なども公開しています。

1925年3月22日朝9時30分、東京芝浦の東京放送局仮放送所から、日本のラジオ第一声が流れました。アナウンサーは、JOAKを「ジェーイ、オーウ、エーイ、ケーイ」と遠くに呼びかけるように読み上げました。このあと、初代総裁の後藤新平があいさつし、ラジオの機能として文化の機会均等、家庭生活の革新、教育の社会化、経済活動の活性化を強調しました。そして7月、今度は愛宕山で本放送が始まり、愛宕山は“放送のふるさと”と呼ばれるようになりました。

出典 NHK公式サイト

所在地:東京都港区愛宕2丁目1−1

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ホテルオークラ東京

 

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ホテルオークラ東京の特徴

The Okura Tokyoは「日本のホテル」です。

世界の一流ホテルに並ぶ格式と快適さをそなえる、
日本ならではのホテルをつくりたい。
1962年、そんな強い想いを原点として
開業したのがホテルオークラです。

新たな出発を迎えたThe Okura Tokyoは、
静かで気品ある「オークラ ヘリテージ」と、
都市型ホテル「オークラ プレステージ」という
2つのブランドで構成されています。

すべてに共通しているのは、
優雅さを追求する「日本の美」と、
一人ひとりのゲストに
きめ細かく気遣いする「日本の心」。
私たちが考える日本らしさで、
みなさまをお迎えします。

出典 ホテルオークラ東京公式サイト

所在地:東京都港区虎ノ門2丁目10−4

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慶應義塾大学

 

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慶應義塾大学の特徴

慶應義塾は1858年、福澤諭吉が江戸に開いた蘭学塾から始まりました。創立から160年を超え、現在は小学校から大学・大学院までを擁する、日本で最も長い歴史を持つ総合学塾の一つとして幾多の人材を輩出しています。学問、とくに「実学」の重要性を説いた福澤の志と理念を受け継ぎ、教育、研究、医療を通じた社会へのさらなる貢献を目指します。

出典 慶應義塾大学公式サイト

所在地:東京都港区三田2丁目15−45

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綱町三井倶楽部

 

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綱町三井倶楽部の特徴

綱町三井倶楽部は三井グループの会員制倶楽部。
大正2年の創立以来、三井家及び三井グループの迎賓館として数々のお客様にご利用いただいてまいりました。
現在は会員企業のご接待、ご宴会、各種パーティやウエディングなどにご利用いただいております。

四季折々の色彩に彩られた広大な庭園。風格と趣あるルネサンス様式建築の迎賓館。
心をこめたサービスとホスピタリティで皆様をお迎えいたします。

緑豊かな庭園を背景に優雅な佇まいを見せる綱町三井倶楽部本館は、三井家の迎賓館として鹿鳴館の設計者として知られる「ジョサイア・コンドル博士」の設計によって建てられました。

竣工は大正2年12月。同12年の関東大震災の際に受けた損傷を、昭和4年にその原型を崩すことなく改修工事を施しました。
その後幸いにも第2次大戦の戦禍を免れ、戦後の昭和20年には米軍により「米軍将校クラブ」として使用されておりましたが、昭和28年の返還後は復旧整備を施し三井グループ企業による会員制倶楽部として再生し今日に至っております。
現在はわが国の明治、大正建築史上貴重な建造物としてまた西洋建築の傑作として注目されております。

その隣に位置する別館は、昭和39年竣工以来、緑多い庭園を見晴らせる宴会場として本館とともに、多くの方々にご利用いただいております。

都心とは思えない静寂な環境、古き良き時代から受け継がれた伝統が脈々と息づく綱町三井倶楽部。
それはまさに「三井グループの迎賓館」にふさわしい風格ある社交場になっております。

出典 綱町三井倶楽部公式サイト

所在地:東京都港区三田2丁目3−7

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六本木、 麻布十番、元麻布、南麻布、西麻布、麻布台周辺エリアの名所、人気の観光スポット

有栖川宮記念公園

 

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有栖川宮記念公園の特徴

麻布台地の変化にとんだ地形を生かし、丘があったり、渓流や池があったりと、自然を大切にした趣きのある日本庭園です。豊かな緑はもちろんのこと、春はウメやサクラ、「区の木」のハナミズキなどがかわいらしい花を咲かせ、初夏にはハナショウブ、夏は「区の花」のアジサイ、秋は紅葉、冬は雪景色など四季折々の美しさを堪能できます。

この地は、江戸時代、盛岡南部藩の下屋敷として使われていましたが、明治29年、有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王の栽仁(たねひと)王新邸造成の御用地となりました。大正2年、同宮家が絶え、大正天皇は第三皇子光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王に、有栖川宮の旧称高松宮の称号を賜り、その御祭祀をお継ぎになりました。その後、児童福祉を目的とする遊び場に深いご関心を寄せられていた高松宮殿下は、故有栖川宮威仁親王の20年のご命日にあたる昭和9年1月15日にこの地を東京市に賜与されました。そして、東京市は同年11月に記念公園として開園しました。その後、北東部を編入し、昭和50年には港区に移管されて、多くの人に親しまれています。

出典 港区公式サイト

所在地:東京都港区南麻布5丁目7−29

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国立新美術館

 

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国立新美術館の特徴

国立新美術館は、芸術を介した相互理解と共生の視点に立った新しい文化の創造に寄与することを使命に、2007年、独立行政法人国立美術館に属する5番目の施設として開館しました。以来、コレクションを持たない代わりに、人々がさまざまな芸術表現を体験し、学び、多様な価値観を認め合うことができるアートセンターとして活動しています。具体的には、国内最大級の展示スペース(14,000㎡)を生かした多彩な展覧会の開催や、美術に関する情報や資料の収集・公開・提供、さまざまな教育普及プログラムの実施に取り組んでいます。

国立新美術館は、のべ14,000㎡の国内最大級の展示スペースを有する美術館です。館内には、12の展示室、アートライブラリー、講堂、研修室等があるほか、レストラン、カフェ、ミュージアムショップなどの付属施設の充実も図っています。

「森の中の美術館」をコンセプトに設計された建物の南側は、波のようにうねるガラスカーテンウォールが美しい曲線を描き、円錐形の正面入口とともに個性的な外観を創り出しています。吹き抜けの1階ロビーからは、このガラス越しに、青山公園など地域の緑にとけこむように植栽された草木の四季折々の眺めを楽しむことができます。また、免震装置による地震・安全対策、雨水の再利用による省資源対策、床吹出し空調システム等の省エネ対策、ユニバーサルデザインへの対応、地下鉄乃木坂駅直結の連絡通路など、様々な機能性を追求した設計となっています。

設計者
黒川紀章・日本設計共同体

出典 国立新美術館公式サイト

所在地:東京都港区六本木7丁目22−2 国立新美術館

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森美術館

 

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森美術館の特徴

六本木ヒルズ森タワーの最上層53階に位置する、国際的な現代アートの美術館。世界の先鋭的なアートや建築、デザイン等独自の視点で多彩な展覧会を企画しています。
企画展と併行して、収蔵品を紹介する「MAMコレクション」、映像作品を上映する「MAMスクリーン」、資料展示を中心とした「MAMリサーチ」、世界各地のアーティストと実験的なプロジェクトを行う「MAMプロジェクト」などのプログラムを展開。「アート+ライフ」―現代アートをより身近なものに―をモットーに、六本木ヒルズや虎ノ門ヒルズのパブリックアートの監修や、地域連携のアートイベントなども行っています。

出典 Tokyo Art Beat公式サイト 森美術館公式サイト

所在地:東京都港区六本木6丁目10−1 六本木ヒルズ森タワー 53階

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六本木ヒルズ

 

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六本木ヒルズの特徴

「アイディアが生まれる都市」六本木ヒルズ。六本木ヒルズは”open-mind”な人をはぐくむ街です。安全で、世界中の人をあたたかく迎え入れるように考えられています。六本木ヒルズは、参加する街です。住む人も、働く人も、集う人も、その全員が六本木ヒルズに参加します。ここでは、たくさんの人々が対話を交わします。新しい美術やクリエイティブな食事から、現代社会の抱える困難な課題まで、六本木ヒルズで、人は様々な人の、様々な考え方に触れ、様々な体験を楽しみます。そこに参加することで一人ひとりが考え、変化し、そしてそこから、未来をつくっていくようなアイディアが生まれるのです。ここ、六本木ヒルズが日本、そしてアジア地域をリードし、世界と開かれた対話を起こし、そしてここから未来へのビジョンが生まれる…そんな街を、つくっていきます。

開発経緯 概要

六本木六丁目地区は、テレビ朝日を中心に南側は約17メートルの高低差により分断され、幅員4メートル弱の道路を挟み、木造家屋や小規模なアパート・マンションが密集する地区でした。1986年11月、この地区は東京都から「再開発誘導地区」の指定を受け、森ビル(株)とテレビ朝日(全国朝日放送(株))が再開発の呼びかけを開始し、その後地区内の権利者数約500件による事業実施の準備組織である「再開発準備組合」を設立。 95年4月には第一種市街地再開発事業として「都市計画」決定され、98年に「再開発組合」が設立、権利変換計画認可を経て、再開発誘導地区指定から実に15年経過した2000年に着工することができました。最終的に、地区内の権利者数は、当初の8割の約400件が参加しており、これだけ多くの権利者が参加する事業は他に例をみません。

六本木ヒルズはただの商業施設ではありません。21世紀の都市づくりへの思いを結実させ、東京に新しい「文化都心」を生み出すことが大きな目的のひとつでした。

アイディアが生まれる「文化都心」

六本木ヒルズの中心であり、最も高いところに位置する森美術館、東京シティビュー、森アーツセンターギャラリー、六本木ヒルズクラブは、様々な形の新しいアートが生まれるところ。訪れる人たちの間に会話を起こし、世界についての思索を深める機会を提供します。200以上ものレストランと店舗、都心初のシネマコンプレックス(TOHOシネマズ 六本木ヒルズ)、ワールドクラスのホテル(グランド ハイアット 東京)…。

六本木ヒルズ森タワー(オフィス)

六本木ヒルズ森タワーは、六本木ヒルズのシンボルとなる地上54F建て、高さ238メートルの超高層オフィスビルです。
7Fから48Fまでに位置するオフィスの基準階の貸室面積は、約4,500平方メートル。国内最大級の規模を誇り、最高レベルのスペックによる快適環境を提供します。
ひとりひとりが”open-mind”に働き、新しいものを生み出し、価値を創造している。
六本木ヒルズは、そんな成功するビジネスが集う場所を目指しています。

森アーツセンター

森アーツセンターは、美術館・展望台・会員制クラブなどが一体となって配置された複合文化施設です。六本木ヒルズの中心に建つ六本木ヒルズ森タワーの最上層部分に位置し、「文化都心」のシンボルとなり、未来をかたちづくる新しいアイディアを常に世界に向けて発信し続けています。

森美術館

森美術館は、六本木ヒルズ森タワーの最上階53Fに位置します。現代アートを中心にファッション、建築、デザイン、写真、映像など様々なジャンルの斬新な展覧会を開催します。アートは決して生活とかけ離れた、一部の専門家のものであってはならない。そう考え、都市の原動力のひとつになるように、生きている美術館として森美術館は存在します。

森アーツセンターギャラリー

六本木ヒルズ森タワー 52F展望台と同じフロアに位置する、約1,000平方メートルのギャラリーです。世界の名だたる美術館の貴重なコレクションの企画展から、漫画・アニメ作品、映画、ファッション、デザインまで、多彩で質の高い展覧会を開催しています。

東京シティビュー(展望台)

東京シティビューは、森タワー 52F、海抜250メートル、高さ11メートルを超える吹き抜けと、360度ガラス張りの開放感溢れる空間から日々ダイナミックに変化する東京の姿を一望できる展望台です。東京を俯瞰する特等席、六本木ヒルズの展望台は、”open-mind”な人をはぐくむ空間として、視界そのものが創造力を刺激します。

六本木ヒルズレジデンス

六本木ヒルズレジデンスは、43F建てのツインタワーを中心とし、4棟からなる総戸数793戸の住宅です。この街に参加し、東京の魅力を最大限楽しめるロケーション。そして、街の機能を住まいの延長のようにとらえる生活。”Walking Distance”をコンセプトに、生活の全てを、歩く速度で感じることのできる居住区間で、安全と安心がある快適な環境を提供します。

六本木ヒルズアリーナ

六本木ヒルズの中心に位置する六本木ヒルズアリーナは、街とアートが一体になる都市型の屋外エンターテインメントスペースです。ライブやパフォーマンスなど訪れるたびに異なる刺激に出会え、アイディアがたくさん詰まった都市の広場として、ワールドワイドなメッセージを発信し、コミュニティの核として様々な交流を育みます。

グランド ハイアット 東京

グランド ハイアット 東京は、単に宿泊するだけの場所としてのホテルを超え、ダイナミックで都会的な空間と豊かな時間を提供します。モダンで機能的なデザインが心地よい387の客室。最高級の食材を供する個性あふれる10のレストラン・バーやNAGOMIスパアンドフィットネス、また、最先端の機能と設備を持つ16の宴会施設を完備し、訪れる方のスタイル次第で幾通りもの姿を見せ、ここでしか味わうことのできない究極のくつろぎとあたたかな感動を創出します。

TOHOシネマズ 六本木ヒルズ

TOHOシネマズ 六本木ヒルズは、9つのスクリーン、約2,100席を備え、最新鋭の音響システム、全席完全指定席、都心で初めて導入されたインターネット予約システムなど、常に話題を作ってきた国内最高峰の設備を誇るシネマコンプレックスです。迫力ある映像とサウンドで話題の映画が楽しめるほか、演劇・ライブを含む新時代のエンターテインメントの楽しみ方も提案。六本木という街にふさわしいインターナショナルなセレクションでこだわりの映画を上映する「プレミアスクリーン」は映画館のファーストクラスです。

テレビ朝日

テレビ朝日は、毛利庭園に面し、自然と一体化した総ガラス張りの社屋。そこは、番組を作り出すだけのテレビ局の枠を超えた創造空間です。6層吹き抜けの開放的なアトリウムは光と緑に囲まれ、訪れた人々とのパートナーシップを大切にした、開かれた出会いの空間として機能しています。

毛利庭園

毛利庭園は、面積4,300平方メートルという広大な敷地に、池を中心にし、滝、渓流、川のせせらぎや、桜、イチョウといった木々を配し、四季折々に変化する木々や植物の表情を感じることができる、本格的な回遊式の日本庭園となっています。この庭園は、再開発以前は非公開でしたが、再開発によって一般の方にも自由に散策していただける庭園へと保全再生されました。

出典 六本木ヒルズ公式サイト

所在地:東京都港区六本木6丁目10−1

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麻布台ヒルズ

 

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麻布台ヒルズの特徴

麻布台ヒルズのコンセプトは、「緑に包まれ、人と人をつなぐ「広場」のような街−Modern Urban Village−」。都市の本質はそこに生きる人にあるからこそ、人間を中心に発想し、誰もが豊かに暮らせる環境をめざした「ヒルズの未来形」です。テーマは、「Green&Wellness」。自然と調和しながら、人間らしく健康的に生きられる。そんな新しい都市の豊かさを、世界に先駆けて東京から提案していきます。

立地

麻布台ヒルズの周辺はホテルや大使館が多く集まり、グローバルで文化的にも豊かなエリアです。またアークヒルズに近接し、文化都心・六本木ヒルズとグローバルビジネスセンター・虎ノ門ヒルズの中間に位置しています。それぞれの個性を持ったヒルズがつながり、住宅・オフィス・文化施設・商業施設などの都市機能がさらに集積することで、都市に生きる豊かさがさらに広がります。まさに新時代の東京を象徴するエリアです。

麻布台ヒルズは、区域面積約8.1ha、延床面積約86万㎡。開発前の5倍以上となる約24,000㎡の緑地を整備し、都心にありながら緑あふれる環境を実現しました。そこにオフィス、レジデンス、商業施設、マーケット、ホテル、デジタルアートミュージアム、ギャラリー、インターナショナルスクール、医療施設など、多様な都市機能が集積したコンパクトシティです。豊かな環境の中で、「Green&Wellness」なライフスタイルを叶えます。

出典 麻布台ヒルズ公式サイト

所在地:東京都港区麻布台1丁目

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赤坂、青山エリア

赤坂御用地(赤坂御苑)

赤坂御用地(赤坂御苑)の特徴

現在の住所で東京都港区元赤坂2丁目のほぼ全域を占める赤坂御用地は江戸時代、紀州徳川家の上屋敷(紀州藩赤坂藩邸)があったところで、明治維新後、政府に接収されて帝室(現在の皇室)に献上されたものです。赤坂御用地は元々、他の御料地などと同様に皇室財産でありましたが、第二次世界大戦の敗戦と日本国憲法の発布とともに日本国有に移され、国有財産たる皇室用財産として皇室の用に供せられています。明治6年に失火により皇居が焼失した際は、明治天皇がこの地に移り、明治21年に新皇居(明治宮殿)が落慶するまでの間、ここを皇居としていました。赤坂御用地の北東に隣接して迎賓館(旧赤坂離宮)があり、訪日した外国賓客の接遇に用いられました。

出典 Tokyo Minato City Travel & Tourism Association 公式サイト

所在地:東京都港区元赤坂2丁目

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迎賓館赤坂離宮

 

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迎賓館赤坂離宮の特徴

迎賓館赤坂離宮は、明治42年に東宮御所として建設された、日本では唯一のネオ・バロック様式による宮殿建築物です。当時の日本の建築、美術、工芸界の総力を結集した建築物であり、明治期の本格的な近代洋風建築の到達点を示しています。第2次世界大戦の後、10数年を経て日本が国際社会へ復帰し、外国からの賓客を迎えることが多くなったため、国の迎賓施設へと大規模な改修を施し、和風別館の新設と合わせて昭和49年に現在の迎賓館として新たな歩みを始め、現在に至っています。その後、平成21年に行われた大規模改修工事の後には、日本の建築を代表するものの一つとして、国宝に指定されました。これまで多くの国王、大統領、首相などをお迎えしたほか、主要国首脳会議などの国際会議の場としても使用されています。

出典 迎賓館赤坂離宮公式サイト

所在地:東京都港区元赤坂2丁目1−8

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赤坂御所(東宮御所)

 

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赤坂御所(東宮御所)の特徴

東宮御所は、日本における次期天皇・皇太子の御所。皇太子の異称が「東宮」であるところから、こう称されます。直近の東宮御所は、東京都港区元赤坂の赤坂御用地に、皇太子徳仁親王とその家族の住まいとして平成31年(2019年)4月30日まで所在しました。1989年(平成元年)1月~1993年(平成5年)12月と、2019年(令和元年)5月~2021年(令和3年)9月、いずれも新天皇一家が即位後も引き続き東宮御所を住まいとしたため、赤坂の東宮御所は一時的に「赤坂御所」と改称されました。なお、第126代天皇徳仁には皇位継承権を有する皇子がいないため、2019年(令和元年)5月1日以降、皇太子は空位となり、東宮御所は設けられていません。

出典 ウィキペディア

所在地:東京都港区元赤坂2丁目1−1

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乃木神社

乃木神社の特徴

明治四十五年(一九一二)七月三○日に明治天皇が崩御せられて、御大葬の日と決まった大正元年九月十三日。御霊轜(棺を乗せた車)が宮城を出発する号砲が打たれた午後八時過ぎに、ご祭神と静子夫人は先帝に殉じて自刃を遂げられました。御夫妻の忠誠心に感激した国民はこぞって乃木邸を訪れ、その数は日を追って増していきました。ご祭神の葬儀と同時に幽霊坂と呼ばれていた坂の名前が“乃木坂”と改められることとなりました。

時の東京市市長・阪谷芳郎男爵は先頭に立って広く同志を集め、中央乃木会を組織し、乃木邸内の小社に御夫妻の御霊をお祀りしました。また、毎年九月十三日にはその御前に祭儀を斎行するとともに青少年への研修会を開催するなど、御夫妻の精神を永世に伝えようという活動が活発に続けられていきました。大正八年(一九一九)には乃木神社創立の許可が下り、明治神宮創建の後に御造営の事業がおこされ、大正十二年(一九二三)十一月一日に鎮座祭が斎行されました。

昭和二十年(一九四五)五月二十五日、未明の空襲により本殿以下社殿をことごとく消失しましたが、戦後全国の崇敬者の熱意により、昭和三十七年(一九六二)九月十三日、ご祭神五十年祭に併せて本殿・幣殿・拝殿が復興されました。

ご祭神である乃木将軍のご神徳は、「忠誠」という語に表されます。ご祭神の、自らに対し、そして父母、国に対して誠を貫かれたという御事績は、我々日本人が大切にしてきた精神を表しています。

また、ご祭神は文武両道の神でもあります。武においては軍人として数々の武勲や御事績が示しているように、また文においては学習院長に任ぜられ、昭和天皇の御養育にあたられるなどの教育者としての御事績や、作られた数多くの詩歌、漢詩や書画をみても明らかなように教行両全の学問の神でもあります。

妻として殉じられた静子夫人も、ともに明治天皇に殉じられるまでの30年ほどのあいだ、常に忠孝・質素・仁愛の志あつく、内助の功を尽くされました。その淑徳清操のご生涯もまた世の尊崇を集め、共に夫婦和合の神として祀られています。

出典 乃木神社公式サイト

所在地:東京都港区赤坂8丁目11−27

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赤坂氷川神社

 

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赤坂氷川神社の特徴

鎮座より一千年余、「厄除」「縁結び」の信仰が篤い赤坂氷川神社。徳川吉宗公建立の御社殿は、幾多の震災・戦災を免れ建立当時の姿を現代に伝えます。緑豊かな境内には、江戸の年号が刻まれた鳥居・狛犬・灯籠が現存しており、都内では珍しい江戸の情景を数多く残す神社です。

氷川の名称の由来は、出雲国 簸川(現在の島根県斐伊川)にあるとされ、簸川の上流は御祭神 素盞嗚尊の「八岐大蛇退治(やまたのおろちたいじ)」の舞台と伝えられております。

当社の創祀は、天暦5年(951年)東国を遊行していた蓮林僧正が一ツ木村(現在の赤坂4丁目付近)で一夜を明かすと夢中で御祭神のお告げがあり、この地に氷川明神の社殿を建てお祀りをしたことにはじまります。これより凡そ100年後の治暦2年(1066年)の夏、関東一円に大きな旱魃(かんばつ)があり、苦しむ村人たちが社に雨乞いの祈願をするとたちまち雨が降りはじめ、その雨量は川ができるほどであったようです。以来よく神事が執り行われるようになります。

江戸中期の享保元年(1716年)、紀州徳川家の吉宗公が8代将軍職を継ぐにあたり、紀州藩の中屋敷が赤坂にあったことから、氷川明神への幕府の尊信は高まりました。同14年(1729年)、吉宗公は老中水野忠之を総責任者に命じて現在地に社殿を造営しました。翌15年(1730年)4月26日に一ツ木村から現在地への遷座が行われ、28日には吉宗公直々のご参拝がありました。以後14代将軍家茂公までの歴代将軍の朱印状が下付され、「厄除」「縁結び」の鎮守神としてより一層ご神徳を高められました。

明治元年、明治天皇より新しい首都東京の鎮護と万民の安泰を祈る「准勅祭社」に定められ、現在では「東京十社」の一社に数えられております。

御社殿は、安政の大地震、関東大震災、昭和20年(1945年)の東京大空襲など数々の災禍を奇跡的に免れ、創建当時の姿を現代に伝えており、昭和51年(1976年)に東京都の有形文化財(建築物)に指定をされております。また、豊かな緑に囲まれた境内には、江戸の年号が刻まれた石碑と灯籠、7対の狛犬など歴史を感じさせる遺産が数多く点在しています。

出典 赤坂氷川神社公式サイト

所在地:東京都港区赤坂6丁目10−12

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豊川稲荷東京別院

 

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豊川稲荷東京別院の特徴

豐川稲荷は正式名を「宗教法人 豐川閣妙嚴寺」と称し山号を圓福山とする曹洞宗の寺院です。一般的に「稲荷」と呼ばれる場合は「狐を祀った神社」を想像される方が多いと思われますが、 当寺でお祀りしておりますのは鎮守・豊川ダ枳尼眞天です。

豊川ダ枳尼眞天とは、昔、順徳天皇第三皇太子である寒巖禅師が感得された、霊験あらたかな仏法守護の善神です。 豊川ダ枳尼眞天が稲穂を荷い、白い狐に跨っておられることからいつしか「豐川稲荷」が通称として広まり、現在に至っております。当別院は江戸時代、大岡越前守忠相公が日常信仰されていた豊川稲荷のご分霊をお祀りしています。明治20年に赤坂一ツ木の大岡邸から現在地に移転遷座し、愛知県豊川閣の直轄の別院となり今日に至ったものです。

豊川稲荷を信仰した方としては、古くは今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、九鬼嘉隆、渡辺崋山など武将達から信仰を集めさらに江戸時代には、庶民の間で商売繁盛、家内安全、福徳開運の神として全国に信仰が広まりました。

出典 豊川稲荷東京別院公式サイト

所在地:東京都港区元赤坂1丁目4−7

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アークヒルズ

アークヒルズの特徴

アークヒルズの開発コンセプトは、知的生産性を高めるという時代背景と、国際化・情報化の進展の中、東京・ロンドン・ニューヨークという24時間ビジネス体制に応える新しい、21世紀のビジネス街づくりです。

また、当地区は、赤坂・六本木・青山・麻布と連なる東京の先端的商業・文化・居住ゾーンにも接しており、ビジネスとこのような地域性とを融合させた複合的・多彩な都心活動の場とし当地域を位置づけ、行政の指導のもと、様々な用途の複合化が検討されました。

物理的なスタディーとマーケットリサーチが積み重ねられ、実際に運営する事業者の出現とともに用途の組み合わせが決定され、その結果、大規模超高層オフィス、都心型住宅、本格的シティホテル、2,000席のコンサートホール、テレビスタジオという、ビジネス・生活・文化・情報・レジャーの融合した「複合都市」というコンセプトにまとまりました。

都心らしい高度利用を実現しながら快適な心地良い環境をつくることが次の大きなテーマでした。それぞれの施設の独自の環境を保ちつつ、それぞれが共存できる包容力のある環境づくりが求められ、そのために、高低差のある地形・緑・水という自然環境づくりを大いに取り入れることになりました。 また、技術革新の時代でもあります。快適な環境づくりのための先端技術は最大限取り入れられ、特に目覚ましい進歩を遂げつつあった情報技術についても検討を重ね、本格的情報化時代に備えるため、情報ストラクチャーを装備することになり、いわゆるインテリジェントビル、インテリジェントシティを目指しました。

国際化・情報化時代に対応したビジネス都市・24時間型複合都市・快適環境都市・インテリジェントシティいわば「全環境都市」がアークヒルズの基本コンセプトです。

アークヒルズは、森ビルの大規模複合再開発プロジェクトの先鞭を切った事業です。遡ること1967年、森ビルがこの地に最初の土地を取得し、行政による再開発適地指定を受けてから、じつに19年の時間を費やしています。森ビルの街づくりへの理念が、この膨大な時間とエネルギーを支えたと言っても過言ではありません。

施設計画

高度利用実現のため、5.6haを1つの街区としてまとめ、開発前の折れ曲がった狭小な道路(総面積2,000m²)を幅員12m及び8mの外周路(同7,000m²)として整備しました。旧来の地区内の区道はすべて廃止し、新たな外周道路を新設区道としています。なお、この外周路は、今や名物とされるほどの桜並木に成長し、開花の時期に多くの人々を楽しませています。

高速道路の走っている幅員40mの放射一号線沿いには、超高層でかつボリュームのある事務所とホテルを並べ、日照条件の良い南側の丘の上には、6階、21階、25階の住宅、計3棟を配置しています。住宅棟と事務所棟の間には広場をつくり、その広場に面する部分、及び地下にはテレビスタジオを置きました。また、住宅棟の北側には低層のコンサートホールを広場に面する形で配置し、北側隣接の既存住宅への環境に配慮しています。 幹線沿いの商業系のゾーンは容積を高く積み(事務所・ホテル)、南側の文化・住宅ゾーンは容積をおさえるという「団地の総合的設計の手法」によるいわゆる「容積の移動」を行っています。

また当地区は丘陵地にあり、地域内に20m位の高低差がありますが、その差を利用して段々畑状の広場をつくっています。この立体的広場や、ペデストリアンデッキの整備による歩行者路構成によって55%にも達する公開空地率を確保することが可能となりました。 面的開発では、街区全体の統一性と各建物の個性とのバランスが重要となりますが、街としての骨格、アークヒルズという街のアイデンティティーを保ちながら、各建物はその個性に応じた個性を発揮できるようにと考えました。

出典 アークヒルズ公式サイト

所在地:東京都港区赤坂1丁目12−32

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サントリーホール

 

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サントリーホールの特徴

東京都港区赤坂一丁目にあるコンサートホール。アークヒルズの一画に1986年10月12日に開館した。敷地は森ビルが、建物は森ビルとサントリーホールディングスが所有し、公益財団法人サントリー芸術財団が運営しています。

東京初のクラシック音楽コンサート専用設計ホール。多くの来日オーケストラや著名なソリストの東京圏に於ける公演が行われています。大ホールは舞台後方にも客席があるヴィンヤード型コンサートホールですが、座席の配置上、本格的舞台装置や背景を必要とする伝統的なオペラやバレエは上演できません。クラシック専用設計ですが、他のジャンルの演奏会が開催される事もあります。

出典 サントリーホール公式サイト ウィキペディア

所在地:東京都港区赤坂1丁目13−1

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サントリー美術館

 

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サントリー美術館の特徴

生活の中の美

美しい、と感じるこころは、だれもがもっています。私たちは、毎日の生活の中で美を味わい、愉しんできました。絵や彫刻だけが美ではない。日常使う道具や調度に美を感じる。庭の石や植栽にも、人の立ち居振る舞いにも美を感じる。この国独特の美に対する感受性に守られ、育てられてきた名作、名品があります。そんな「生活の中の美」を、ひとりでも多くの方に愉しんでいただきたい。それが、1961年の開館以来、変わることのない私たちの思いです。
美を結ぶ。美をひらく。

「美を結ぶ。美をひらく。」これは、六本木に移転して以来のサントリー美術館のミュージアムメッセージです。たとえば、古きものと新しきものを結ぶ。中世や近世、近代といった時代の枠組みに縛られずに美と美を結ぶ。たとえば、東と西を結ぶ。国や民族といった文化の境界にとらわれずに美と美を結ぶ。自由に大胆に結ぶことから、新しい発見がひらかれる。知的感動がひらかれる。結ぶことで人と美に新しい関係をひらいていきたい。「結ぶ」と「ひらく」。ふたつの言葉にこめた思いを、私たちの活動の柱といたします。

サントリー美術館は1961年、東京・丸の内に開館。そして2007年には、東京ミッドタウン(六本木)に移転し今日まで精力的に活動を続けています。

現在は年間約6回の企画展を11名の学芸員と共に開催し、年間約30万人のご来場者にご好評をいただいています。収蔵品は、絵画、陶磁、漆工、染織など日本の古美術から東西のガラスまで、国宝1件、重要文化財16件を含む約3,000件に及びます。

当館は『生活の中の美』を表現し、感動に出会っていただける企画展の開催をし、多くの人々にとっての『都市の居間』となる美術館を目指してまいります。

建築

美術館の設計を手がけたのは建築家・隈研吾氏。めざしたのは「都市の居間」としての居心地の良い美術館です。日本の伝統と現代を融合させた「和のモダン」を基調に、安らぎと優しさに溢れた空間を実現。外観は白磁のルーバー(縦格子)に覆われ、透明感すら感じさせます。館内には、木と和紙を意匠に用い、和の素材ならではの自然のぬくもりと、柔らかい光を表現しています。また、館内の随所で床材にウイスキーの樽材を再生利用しています。

展示室は3階と4階の2層からなり、3階には天井高9.3mの吹き抜け空間を設けました。隣の展示室との間は可動壁で隔てられ、襖や障子のように開け閉めすることで、多目的な空間利用が可能になっています。また、反対側の巨大なガラス面には、2枚の格子をスライドさせて光を調節する「無双格子(むそうごうし)」を設置。外光を遮断した展示空間から、緑溢れる外景を楽しむ憩いの空間まで、さまざまな演出が可能です。6階には、イベントを行うホールや、旧美術館から一部を移築した茶室「玄鳥庵(げんちょうあん)」を備えています。3階にはミュージアムショップとカフェが一体化したshop×cafe(ショップバイカフェ)も併設、観覧後に余韻を楽しんでいただく施設の充実を図っています。

出典 サントリー美術館公式サイト

所在地:東京都港区赤坂9丁目7−4 東京ミッドタウン ガレリア 3階

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根津美術館

 

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根津美術館の特徴

根津美術館は、東武鉄道の社長などを務めた実業家・初代根津嘉一郎(1860~1940)が蒐集した日本・東洋の古美術品コレクションを保存し、展示するためにつくられた美術館です。

山梨県に生まれた初代嘉一郎は、若い頃から古美術品に関心を寄せていたようです。明治29年(1896)東京に本拠を移すと、実業家、政治家として腕を振るい、また教育界にもその活躍の場を広げるかたわら、茶の湯にいそしむようになると、美術品の蒐集にはさらに拍車がかかりました。その蒐集ぶりは豪快を極めたと語り草になっています。そして、それらのコレクションを単に秘蔵するのではなく、「衆と共に楽しむ」ことが初代嘉一郎の願いでした。

その遺志を継いだ二代根津嘉一郎が、昭和15年(1940)に財団を創立、翌年根津美術館が開館しました。昭和20年、戦災で展示室や茶室などその大部分を焼失しましたが、昭和29年に美術館本館を再建、昭和39年には増築を行い、平成3年(1991)には創立50周年記念事業としてさらに増改築を行いました。

そして、現館長・根津公一のもと、平成18年より3年半をかけたこのたびの新創工事は、以前の新館を建物免震の収蔵庫に改築することからはじまり、3つの倉庫と旧本館を取り壊して、新たな展示館(本館)を建設するなど大規模なものとなりました。

かつての蔵(収蔵庫)

昭和15年の財団設立当時、4,643点でスタートした当館の所蔵品の数は、2024年3月末の時点で、7,630件を数えるにいたっています。これらのうちには、国宝7件、重要文化財92件、重要美術品95件がふくまれています。

コレクションの大部分は、初代根津嘉一郎の旺盛な蒐集の成果です。蒐集の対象は、日本・東洋古美術の広いジャンルにわたり、当館コレクションの幅の広さにつながっています。また晩年、自ら青山と号して茶の湯をたのしむなかで集めた茶の道具の数々も、コレクションの重要な柱となっています。

初代嘉一郎没後に購入された作品、さらに、篤志家から寄贈された作品もあります。ことに作品寄贈の多さは日本の私立美術館としては珍しく、当館に対する信頼の高さを示しているといえます。購入品や寄贈品は、コレクションにさらなる魅力を加えています。

出典 根津美術館公式サイト

所在地:東京都港区南青山6丁目5−1

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秩父宮ラグビー場

 

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秩父宮ラグビー場の特徴

秩父宮ラグビー場は、ラグビー専用競技場として昭和22(1947)年に女子学習院跡地に「東京ラグビー場」として完成。昭和28(1953)年、財団法人日本ラグビーフットボール協会の名誉総裁であった秩父宮殿下のご遺徳を偲び「秩父宮ラグビー場」と名を改めました。
昭和37(1962)年10月1日、秩父宮ラグビー場は国立競技場に移管され、昭和39(1964)年、第18回オリンピック東京大会ではサッカー競技会場として利用されました。
現在も、ラグビーの国際試合、日本選手権、トップリーグ、大学選手権、関東大学対抗戦/リーグ戦などに利用されています。

出典 独立行政法人日本スポーツ振興センター公式サイト

所在地:東京都港区北青山2丁目8−37

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東京都立中央図書館

東京都立中央図書館の特徴

都立中央図書館は、1973(昭和48)年に、都立日比谷図書館の蔵書を引き継いでこの地に開館しました。蔵書数は国内の公立図書館では最大級の約229万冊を所蔵しており、このうち、新しい図書を中心に約35万冊を開架しています。当館は、来館される方への閲覧サービスや調査研究への支援、都内公立図書館に対するレファレンスの支援や資料の貸出などを主な業務として、サービスを提供しています。

出典 東京都立中央図書館公式サイト

所在地:東京都港区南麻布5丁目7−13

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青山霊園

青山霊園の特徴

港区南青山のビル街にほど近い地にあり、都心の貴重な緑の空間となっている霊園です。明治以来の個性的な大小様々な墓所や著名人の墓所が数多くあり、外人墓地もあります。墓参者のほか、歴史の勉強や散策に訪れる人も大勢います。開設は明治7年で、面積は約26ヘクタール。

草木

南北に貫通する道路にサクラ並木があるほか、園内のいたるところにサクラが植えられています。また、青山陸橋から園内に入る広い道路にはエンジュの並木があります。

青山霊園は、樹木が生い茂る武蔵野の面影を留める港区の北西に位置し、ビル街の中にある園内には桜並木が縦横に走る落ち着いた雰囲気を保っています。面積は約26haで、明治に入り会津藩出身の桐生氏が開いた現在の附属立山墓地(青山霊園立山地区)が興りとされ、隣接してのちの青山霊園への造成へとつながっていきました。

1872年(明治5年)、美濃郡上藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主・青山家の下屋敷跡に開設されました。当初は神葬祭墓地でした。1874年(明治7年)9月1日、市民のための公共墓地となりました。1889年(明治22年)、東京府から東京市に移管された。1926年(大正15年)、斎場の建物のすべてが東京市に寄附され、日本で初めての公営墓地となりました。現在は東京都の所管です。

明治維新の功労者や文学者・科学者・芸術家・政治家等の著名人墓所が数多くあります。維新の三傑である大久保利通、細井和喜蔵の『女工哀史』の印税で建てられた「解放運動無名戦士墓」も存在、忠犬ハチ公の墓もあります。附属立山墓地には、永田鉄山、木村兵太郎、相楽総三なども眠っています。

出典 公益財団法人 東京都公園協会公式サイト ウィキペディア

所在地:東京都港区南青山2丁目32−2

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東京ミッドタウン

 

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東京ミッドタウンの特徴

2007年3月30日、六本木で開業した東京ミッドタウンは、ホテル(ザ・リッツ・カールトン東京)、文化施設(サントリー美術館など)、130に及ぶ商業店舗、オフィス、住居、病院、公園などが集約された複合都市です。

開発

2000年、防衛庁本庁が檜町から市ヶ谷に移転したことから、この街の新しい都市計画が始まりました。広大な緑を臨む港区立檜町公園を含めた再開発事業です。2001年9月、コンソーシアム6社がこの土地を落札することで、このプロジェクトはスタートしました。民間都市再生の事業認定を受け、関係者のご協力のもと、2007年3月にグランドオープンを迎えました。

土地の記憶

東京ミッドタウンの敷地内には、歴史を物語るものがいまも数多く残っています。旧防衛庁に植えられていた約140本の木々は東京ミッドタウンの緑地として、毛利下屋敷跡の石組溝の石は、現在は擁壁として、形を変えて受け継がれています。

都市景観

東京ミッドタウンの配棟計画は、伝統的な日本庭園の宇宙の中心性を象徴する石組みの配置になぞらえたものを基本コンセプトとしています。
また開発にあわせ、外苑東通りの拡幅や電線の地中化工事、都営大江戸線六本木駅舎の改築工事を行うなど、周辺の都市景観にも配慮しています。

出典 東京ミッドタウン公式サイト

所在地:東京都港区赤坂9丁目7−1

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東京ミッドタウン · 〒107-0052 東京都港区赤坂9丁目7−1
★★★★☆ · 商業地

ザ・リッツ・カールトン東京

 

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ザ・リッツ・カールトン東京の特徴

東京・六本木の5つ星ホテル、ザ・リッツ・カールトン東京。地下鉄六本木駅に直結、4ヘクタールもある緑地や美術館、ショップが集まる複合施設「東京ミッドタウン」のシンボルタワーであるミッドタウン・タワーの上層階9フロアを専有する贅沢なロケーションです。日本の美意識と洗練されたラグジュアリーが融合する全245の客室をはじめ、これまでの概念を超える邸宅の雰囲気とくつろぎの空間「クラブラウンジ」、ミシュラン三つ星シェフ監修のフレンチレストランを含む多彩なダイニング、至福のリラクゼーションを体験するスパなど充実した施設とともに、パーソナルなそして心温まるおもてなしでお迎えいたします。

出典 ザ・リッツ・カールトン東京公式サイト

所在地:東京都港区赤坂9丁目7−1 Tokyo Midtown

地図↓

ザ・リッツ・カールトン東京 · Tokyo Midtown, 9丁目-7-1 赤坂 港区 東京都 107-6245
★★★★★ · ホテル

高輪、白金台・白金エリア

国立科学博物館附属自然教育園

 

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国立科学博物館附属自然教育園の特徴

自然教育園は、大都市「東京」の中心部にあって今なお豊かな自然が残る、都会の中のオアシスともいえる貴重な森林緑地です。園内にはコナラ・ケヤキ・ミズキなどの落葉樹、スダジイ・カシ類・マツ類などの常緑樹が広がり、ススキやヨシの草はら、池や小川などがあります。このような自然を活かした植物園が整備されており、四季にわたって様々な草花や、昆虫などの生きものを身近に観察できます。園内の植物には種名表示板や解説板が整備されており、自然を深く知ることができるように工夫されています。自然教育園では園内の自然を活用した様々な活動を行っています。入園者を対象に日曜観察会や自然史セミナー、子ども自然教室などを開催しています。さらに、児童・生徒・学生の校外学習にも利用されています。自然に親しみ、四季折々に変化する生物の姿や風景に心をなごませ、自然と人間との関わりを考える場として自然教育園を大いに利用していただければ幸いです。

沿革

自然教育園は、園内から縄文中期(紀元前約2500年)の土器や貝塚が発見されていることから、この時代から、人々が住んでいたと考えられています。
平安時代には目黒川、渋谷川の低湿地では水田が開墾され、台地の広々とした原野には染料として欠かせなかったムラサキの栽培も広範囲に行われていたと考えられています。室町時代に入ると、この地方にいた豪族がこの地に館を構え、今に残る土塁は当時の遺跡の一部と考えられています。この館の主が誰かは不明ですが、白金の地名は永禄2年(1559)の記録に初めてあらわれ、太田道灌のひ孫の新六郎がこの地を治めていたことが記録されています。また、いわゆる「白金長者」であったという言い伝えも残っています。江戸時代になると、増上寺の管理下に入りましたが、寛文4年(1664)には、徳川光圀の兄にあたる高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となり、園内にある物語の松やおろちの松などの老木は、当時の庭園の名残であろうと思われます。明治時代には火薬庫となり、海軍省・陸軍省の管理となり、大正6年(1917)宮内省帝室林野局の所管となり、白金御料地と呼ばれました。その後、昭和24年文部省の所管となり、「天然記念物及び史跡」に指定され、国立自然教育園として広く一般に公開され、昭和37年国立科学博物館附属自然教育園として現在に至っています。

出典 国立科学博物館附属自然教育園公式サイト

所在地:東京都港区白金台5丁目21−5

地図↓

国立科学博物館附属 自然教育園 · 〒108-0071 東京都港区白金台5丁目21−5
★★★★☆ · 自然保護公園

東京都庭園美術館

 

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東京都庭園美術館の特徴

東京都庭園美術館の本館は、1933(昭和8)年に皇族朝香宮家の自邸として建てられました。1983(昭和58)年に美術館として開館し、さまざまなジャンルの展覧会を中心に活動しています。2021年(令和3)年4月には、「東京都庭園美術館条例」が施行され、都立文化施設として新たなスタートを切りました。

本館は、主要な部屋の内装にアンリ・ラパンやルネ・ラリックら、フランスのアール・デコ様式における著名なデザイナーが起用されており、宮廷建築を担っていた宮内省内匠寮が手がけた邸宅の中でも特色のある建築として、2015(平成27)年には国の重要文化財に指定されています。 庭園も宮邸時代の面影を残しており、芝生で覆われた開放感のある前庭と、築山と池を備え起伏に富んだ日本庭園は、桜や紅葉など四季折々の変化を楽しめます。

今後も建物の特性を活かしながら、装飾芸術の観点から美術作品を紹介する、特色のある展覧会を開催するとともに、庭園の活用やさまざまな教育普及事業に取り組み、文化的な都市空間の形成と、あらゆる鑑賞者に開かれた美術館の実現に努めてまいります。

出典 東京都庭園美術館公式サイト

所在地:東京都港区白金台5丁目21−9

地図↓

東京都庭園美術館 · 〒108-0071 東京都港区白金台5丁目21−9
★★★★☆ · 美術館

東禅寺

 

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東禅寺の特徴

本来の自分の在処 に還る

大都会の喧噪のなか高輪の片隅、山門を入り常盤木の緑裕かな閑静な境内に佇み、木蔭の涼しさ、木洩れ日のやさしさに包まれ、清しい風に吹かれて鳥の囀りを聴く。悠久の歴史の潮流に心を放てば本来の自分の在り処や生き方がみえてくるかもしれません。小さな都合にしがみつけば苦しく哀しく口惜しくて堪らないこともちょっと見方を変えるだけでずいぶん違った景色にみえてくる。

大切な何かを失くした哀しみや想いどおりにならない苦悩葛藤、不安や焦躁に曝され 傷つき疲れた心が癒され安らかさを取りもどして、あしたへの希望と勇気が湧いて直向きに精一杯生きてみようと想う。そんな気づきを、そしてあなたの心が安らかでありますようにと切に希っています。

由緒

東禪寺は慶長15年(1610)江戸城外櫻田に開創されました。本尊はお釈迦さま、開山は嶺南禪師、開基は宮崎の飫肥藩主伊東祐慶公、臨濟宗妙心寺派の古刹です。寛永13年(1636)この高輪に移転再建されました。現在、赤坂にある霊南坂は嶺南禪師の名残りです。

創建以来250年は参勤交代制度により諸大名家の江戸での菩提寺でした。また幕府の定める妙心派下の觸頭寺院として職責を務めました。嘉永6年(1853)に至り長閑だった日本にペリーが来航、欧米列強の脅迫的な開国要求に止むをえず日米及び日英修好通商条約を締結しました。幕末の150年前の安政6年(1859)6月7日に英国公使オールコックは此の東禪寺境内にユニオンジャックの英国旗を掲揚して最初の英国公使宿館としました。文久元年(1861)水戸浪士による襲撃事件、及び翌文久2(1862)と2回にわたり襲撃事件がありました。

こうして此の東禪寺はかつて幕末に於いて日本外交のひとつの舞台でした。しかし幕命とはいえ攘夷の風潮のさなか、而も神聖なお寺に異邦人を居住させたこと、更には襲撃を受けて血が流れたことにより穢れた寺と誹謗され、7ヶ年に及ぶ占拠はお寺の事情を一変させました。檀越の或る有力大名家はお寺を見放し離檀、経済的な裏付けを失くして伽藍の修復も叶わず境内は荒涼として憂慮すべき一途を辿ります。

幕末の黎明期に於いて英国公使宿館にされたことは東禪寺史上、不都合極まりない事件でした。大小幾多の辛苦の遭逢を経て法灯400年、さながら真夏の炎天下の木蔭の涼しさを供する「天下の蔭涼樹」として嶺南の一家風は此処に健在です。

宗旨

臨済宗妙心寺派のお寺です。

お釈迦さまの正法眼蔵涅槃妙心実相無相微妙の法門を28代初祖達磨大師、そして宗祖臨済禪師、更に妙心寺開山関山慧玄禪師に及び師資相承された応燈関の一流の禪を宗旨とします。

心を調え内に宿る本来の自己に立ち還り私心なく大自然の摂理法則や道理に叶い正しく対応工夫して生きて応分に安穏無事、安心があります。大切なものを失くした哀しみや想いどおりにならない苦悩葛藤、不安や焦躁も本来に立ち還り見直せばずいぶん違った景色にみえてきます。

妙心寺開山さまは「請う其の本を務めよ」と垂訓されました。生涯賭けて自己の本分を全うすべく直向きに精一杯生きる、唯それだけです。此の地上に生きる目的目標、志や希望を明確にして叶えるべく、「大丈夫ちゃんと生きてゆける!」と自分を信じ自信をもって、たとえ何があってもどんなときも挫けないであきらめないで、絶えず前を向いて果敢に立向い乗越えてあしたを切拓き創造して、
どうぞ佳き人生をおすごしください。

出典 東禅寺公式サイト

所在地:東京都港区高輪3丁目16−16

地図↓

東禅寺 · 〒108-0074 東京都港区高輪3丁目16−16
★★★★☆ · 仏教寺院

泉岳寺

泉岳寺の特徴

泉岳寺は曹洞宗の寺院です。曹洞宗のご本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう一つは横浜鶴見の總持寺です。道元禅師の主著は仏教の真髄を表した『正法眼蔵』という95巻に亘る書物です。さて、泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田(現在の警視庁の近く)に創立した寺院です。しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺はできあがったのです。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶200名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三ヶ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。その家風は引き継がれており、人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が、現在もいます。

出典 泉岳寺公式サイト

所在地:東京都港区高輪2丁目11−1

地図↓

泉岳寺 · 〒108-0074 東京都港区高輪2丁目11−1
★★★★☆ · 仏教寺院

高野山東京別院

高野山東京別院の特徴

高野山真言宗 総本山金剛峯寺の別院です。 慶長年間、高野山の宝門・寿門の学侶方の在番所として開創され、延宝元年(1673年)「高野山江戸在番所高野寺」として建立されました。 幕府と宗務全般の交渉、および幕府の諸通達を全国の古儀真言寺院に達する触頭(ふれがしら)の責務を担いました。 高野山から重役方が交代で参勤し、学侶教修の道場、大師信仰の実践の場として重要な役割を果たしました。明治に入って在番所の廃止に伴い、葛飾牛島の長壽寺の名蹟を移して寺蹟を継承し、昭和2年「高野山東京別院」と改称しました。 住職は、総本山金剛峯寺座主が兼摂し、主監を任命して、東京別院の経営と東京における本山ならびに宗団の教務を処弁しています。 また、東京別院は、首都圏における「大師信仰」の教化の拠点であり、壇信徒のみならず、 広く人々の心の拠り所として歴史を刻んでいます。

出典 高野山東京別院公式サイト

所在地:東京都港区高輪3丁目15−18

地図↓

高野山 東京別院 · 〒108-0074 東京都港区高輪3丁目15−18
★★★★☆ · 仏教寺院

港南、芝浦、海岸二丁目、三丁目、台場エリアの名所、人気の観光スポット

レインボーブリッジ

 

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レインボーブリッジの特徴

芝浦地区と臨海副都心を、長さ約 800mで結ぶ首都最大級の橋。東京のシンボル的存在で、東京湾に美しいシルエットを与えています。上層は首都高速、下層は一般道、遊歩道、新交通ゆりかもめが走る二重構造。1.7km(徒歩20~30分)の遊歩道から、東京タワーやお台場の景色を楽しめます。

高速11号台場線は、東京臨海部に建設される副都心部と都心とを結ぶ基幹交通施設として、また、都市高速道路網の幹線として整備されたもので、レインボーブリッジは高速11号台場線・臨港道路・臨海新交通システム(ゆりかもめ)からなる複合交通施設になっています。レインボーブリッジ付近の臨港景観は、港の水面が描きだす水平線と、高層ビル群の垂直線によって構成されています。
レインボーブリッジは、直線で構成される臨海の都市を背景に、吊り橋の特性を生かし、広がりやのびやかさのなかに優美な容姿を印象づけるよう、主塔、橋脚の垂直線に柔らかな曲線を配しています。

レインボーブリッジのライトアップ

レインボーブリッジのライトアップは、この地域が未来を志向する臨海副都心の「顔」となるために、「都市の美観の整備」「都市の安全性の確保」および「生活の時間・空間の拡大」という観点から、十分な検討のもとに計画されました。そのイルミネーションには、長寿命、省電力、高輝度などの特徴をもつ光源”無電極ランプ”を採用しています。また、橋梁では世界で初めてイルミネーションを3色に変化させました。白色にライトアップされた主塔と時間によって切り替わるケーブルイルミネーションコントラストが、東京港の夜を美しく彩ります。

1987年1月 着工

着工当時、レインボーブリッジは「レインボーブリッジ」という名前ではありませんでした。「東京港連絡橋」と呼ばれていたのです。「東京港連絡橋」は、高速11号台場線の一部。高速11号台場線は、高速1号羽田線と湾岸線を直結する路線。当時これから建設される東京臨海副都心と都心とをつなぐ、また都心への交通集中を解消するという役割を持つ路線です。高速11号台場線の役割はそれだけではありません。新しいエリアである東京臨海副都心にふさわしい、新しい景観を演出して多くの人々のいこいの場になるという役割も担っていました。交通の便利さと景観の美しさの両方を兼ね備えた橋を目指し、いよいよ建設がスタートしたのです。

1987年〜1993年 建設

空と海と陸の交通の要所となる東京港周辺という立地から、設計、そして工法には様々な制約がありました。例えば主塔の高さや橋の形。羽田空港のそばで主塔の高さに制限がありました。また入り組んだ湾内を大型船が通行するための航路の幅が必要でした。様々な検討がされた上、吊橋という形が採用されました。そういった困難や制約を乗り越え、レインボーブリッジは建設されていきます。

レインボーブリッジの基礎は、また海面下46mの軟岩の上に作る必要がありました。そのため、建設当時世界でも最大級のニューマチックケーソン工法によって橋の基礎が作られました。ニューマチックケーソン工法は、空のコップを逆さまにして沈めるとコップの中に水が入ってこないという原理を利用した工法です。コンクリートの箱のようなケーソンの中にコップの中と同じような状態の作業室を設けます。土の中には地下水があるため、地盤を採っていくと水がでますが、作業室の中の空気の圧力を上げ地下水の圧力と同じに保つと室内には入ってきません。そして、沈めると同時にケーソン上部に壁をつくり、海面下46mまでケーソンをつくることができるのです。

1993年 開通

着工から6年半、「レインボーブリッジ」と高速11号台場線がいよいよ開通します。開通した8月26日はあいにくの雨でしたが、華々しく東京港デビューを果たしました。
それまで1つのルートしかなかった都心環状線と湾岸線が南北で結ばれることで、箱崎ジャンクション付近の渋滞も緩和され、東京ベイエリアや羽田新空港と都心部との連結がスムーズになりました。また、東京臨海副都心へのルートの選択肢が増え、このエリアへの注目度が高まりました。

出典 港区観光協会公式サイト 首都高速道路株式会社公式サイト

所在地:東京都港区

地図↓

レインボーブリッジ · 〒105-0000 東京都港区
★★★★★ · 橋

台場公園

 

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台場公園の特徴

台場公園は江戸時代にペリーが来航した後、江戸幕府が作った台場(砲台)跡を1928年、一般の人たちが利用できるよう開放された公園です。 公園内には当時の面影を感じることができる陣屋や火薬庫の跡、砲台のレプリカ等があり、江戸時代の面影を感じることができるとともに、レインボーブリッジを間近に見ることができます。
そして、春には日本樹木医会に健康優良樹に選定された樹高10mにもなる「オオシマザクラ」が満開に咲き誇り、来園者を楽しませてくれます。

出典 株式会社東京臨海ホールディングス公式サイト

所在地:東京都港区台場1丁目10−1

地図↓

台場公園 · 〒135-0091 東京都港区台場1丁目10−1
★★★★☆ · 公園

お台場海浜公園

 

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お台場海浜公園の特徴

お台場海浜公園は、入り江を囲んで広がる公園です。延長約800mの人工砂浜「おだいばビーチ」では、様々なイベントが開催されたり、ウインドサーフィンなどのマリンスポーツが楽しめます。また、磯浜エリアも整備されており、ウォーターフロントの美しい景観を眺めながら、釣りや磯遊びを楽しむことができます。

すぐ近くには「デックス東京ビーチ」や「アクアシティお台場」といった商業施設もあり、食事やショッピングの他、アミューズメントも楽しめます。

都内屈指の夕暮れ・夜景スポット

昼間の景色も素晴らしいのですが、夕日に染まるお台場海浜公園の景色は一段と優雅で美しく、あらゆる人の心を癒します。
また、夜になるとレインボーブリッジを始め、東京タワーや大観覧車などがライトアップされ、東京ベイエリアを代表する夜景が楽しめます。

自由の女神像

お台場の観光名所の1つである自由の女神像は、「日本におけるフランス年」を記念したブロンズのレプリカ像で、お台場海浜公園内に設置されています。1998年4月から約1年間、パリ市にある自由の女神像がお台場海浜公園に来ていて、その像から型を取って造られました。2000年12月から常設されている像の高さは、台座を除いて約11m、重さは約9tあり、ニューヨークの7分の1サイズです。

春のお花見スポット

毎年春は桜が満開。レインボーブリッジを背に、海を眺めながらのお花見が楽しめます。

出典 株式会社東京臨海ホールディングス公式サイト

所在地:東京都港区台場1丁目4

地図↓

お台場海浜公園 · 〒135-0091 東京都港区台場1丁目4
★★★★☆ · 公園

港区立伝統文化交流館

 

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港区立伝統文化交流館の特徴

当施設の建物は港区の指定有形文化財である「旧協働会館」を活用しています。「旧協働会館」は、昭和11年に芝浦花柳界の見番(※)として建設された、都内に現存する最古級の木造見番建造物です。戦後は東京都により港湾労働者の宿泊所として使用されていましたが、平成12年3月に老朽化のため施設が閉鎖されていました。しかし、保存・活用を望む地域の声を受け、港区では保存整備工事を進め、令和元年12月に竣工、令和2年4月に港区立伝統文化交流館として開館を迎えました。
※「置屋」「料亭」「待合」からなる「三業」を取りまとめ、芸者の取次や遊興費の清算をする施設

施設の目的

伝統文化交流館は、港区指定有形文化財である「旧協働会館」を保存・活用して、様々な伝統文化や地域の文化に関する事業を行うことにより、伝統や文化を次世代へとつないでいく施設です。

出典 港区立伝統文化交流館公式サイト

所在地:東京都港区芝浦1丁目11−15

地図↓

港区立伝統文化交流館(旧協働会館) · 〒105-0023 東京都港区芝浦1丁目11−15
★★★★☆ · 史跡

フジテレビ本社ビル

 

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フジテレビ本社ビルの特徴

日本を代表する民間放送局

5,000人を超える多くのスタッフが、地上波放送、BS・CSの衛星放送、インターネットなどで、24時間休むことなく世界に情報を発信しています。また球体展望室「はちたま」などユニークな外観の建物は、お台場のシンボルになっています。「はちたま」からはレインボーブリッジはもちろん東京タワー、東京スカイツリーなど東京の景色を海越しにご覧いただけます。冬の天気の良い日には富士山も臨むことができるなど、季節ごとに地上100メートルからの臨海パノラマをお楽しみいただけます。

開かれた放送局として、球体展望室「はちたま」以外にも「フジテレビギャラリー」など一般開放エリアもたくさんあり、お土産に最適なグッズショップも充実。多くの観光客が訪れる人気のスポットです。

出典 フジテレビ公式サイト 株式会社東京臨海ホールディングス公式サイト