奈良県奈良市はこんなに素敵なところ!
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こちらでは奈良県奈良市の名所、人気の観光スポット、パワースポット、有名なもの、有名人、名物、特産品、名産品、お土産、高級な手土産、ギフト、ブランド品、通販でお取り寄せ出来るご当地グルメ、美味しいもの、銘菓、和菓子、洋菓子、スイーツ、名店、ランチにおすすめのお店、レストラン、カフェ、パン屋等、奈良市のお役立ち情報、特徴、魅力を動画、画像とともにご紹介します。
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ねえねえボンゾくん、こんど奈良県の奈良市に行くんだけど、どんな特徴や魅力があるところなのかなあ?奈良市についていろいろ教えてよ!特に美味しいものが知りたいなあ!
奈良市には素敵なところや有名なもの、美味しいものがたくさんあるよ!東大寺、奈良の大仏、興福寺、春日大社、春日大社の藤、春日山原始林、元興寺、薬師寺、唐招提寺、唐招提寺金堂、平城宮跡・平城宮跡歴史公園、正倉院、奈良公園、奈良公園の鹿、西大寺本堂、依水園、浮見堂、多聞山城、柳生陣屋跡、月ヶ瀬梅林、旧大乗院庭園、円成寺庭園、平城京左京三条二坊宮跡庭園、法華寺庭園、平城宮東院庭園、大和茶、古都華、奈良漬、赤膚焼、奈良筆、奈良墨、奈良一刀彫・奈良人形、螺鈿漆器、奈良団扇、中谷堂のよもぎ餅、ガトー・ド・ボワ A LA MAISONの洋菓子、萬御菓子誂處 樫舎の和菓子、奈良 而今の日本料理、麺屋NOROMAのラーメンなんかがおすすめだね。それじゃあイギーくんと一緒に奈良県奈良市のこと、詳しく調べてみようね!
奈良市の名所、人気の観光スポット
東大寺
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東大寺の特徴
仏の加護により国家を鎮護しようとした聖武天皇の発願で建立されました。751年に大仏殿が完成し、翌年には盛大な大仏開眼供養がおこなわれました。その後、1180年と1567年に兵火にあい主要伽藍を焼失しましたが、そのつど再建されました。
現存する大仏殿は1709年に再建されたもので、世界最大規模の木造建築物としての威容を誇っています。本尊の盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像(国宝)は“奈良の大仏さん”とよばれ、全国の人たちに親しまれています。広大な境内にはほかにも、聖武天皇遺愛の宝物をおさめた正倉院正倉など、数多くの貴重な建物が残されています。また境内の東には、寺の鎮守として創立された手向山八幡宮があります。
南大門(鎌倉時代)・法華堂(正堂/奈良時代・礼堂/鎌倉時代)・鐘楼(鎌倉時代)・大仏殿(江戸時代)・開山堂(鎌倉時代)・転害門(奈良時代)・本坊経庫(奈良時代)・正倉院正倉(奈良時代)・二月堂(江戸時代)の9棟が国宝建造物に指定されています。
奈良の大仏さまで知られる奈良時代創建の代表的な寺院で、都である平城京に全国の国分寺の中心として建立されました。大仏殿は世界最大級の木造建造物です。
天平15年(743)に聖武天皇が生きとし生けるすべてのものが栄えるようにと願い、盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)造立の詔を発し、天平勝宝4年(752)に大仏さまは開眼されました。以降次々と堂塔が建造され、40年近くかけて伽藍が整いました。都が移ったあとも大仏さまの寺として朝野の篤い信仰を集めました。しかし、治承4年(1180)平重衡の軍勢によって大仏殿をはじめ伽藍の大半を失いました。重源上人によって再興されましたが、永禄10年(1567)の三好・松永の乱で、わずかな建物を残して再度焼失してしまいます。現在の伽藍の多くは公慶上人らによって江戸時代に再興されたものですが、法華堂や転害門、南大門をはじめ、各時代を代表する国宝建造物を含む多くの文化財を伝えています。
所在地:奈良市雑司町406-1
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奈良の大仏
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奈良の大仏の特徴
東大寺大仏 -盧舎那仏とは-
聖武天皇は、災害や政変、反乱などが相次ぐ当時の社会不安を、仏法の力によって解消しようと(鎮護国家思想)、全国に国分寺の創建を推進する一方、大仏造立を発願。 東大寺の本尊として世界最大の金銅仏、盧舎那仏(るしゃなぶつ)の造営が始まり、天平勝宝4年(752年)に開眼法会が盛大に行われました。
盧舎那(ルシャナ)・毘盧遮那(ビルシャナ)=いずれもサンスクリット語のヴァイローチャナの音訳で、光明があまねく照らすという意味の「光明遍照」と漢訳される、華厳経の教主です。平安時代の密教で宇宙の根本仏とされる大日如来は、ビルシャナ仏から展開した仏です。
大仏さまと大仏殿の造立には当時人口の約半分、のべ260万人もの人々が協力しました。
奈良の大仏、その大きさ
大仏の頭3.2m、体15m、台座3m
詳細
座高 1,498cm
顔の長さ 413cm
顔の幅 320cm
目の長さ 102cm
鼻の幅 98cm
鼻の高さ 50cm
口の長さ 133cm
耳の長さ 254cm
手のひらの長さ 148cm
中指の長さ 108cm
足長(左足)374cm
ひざの厚さ 223cm
銅座の高さ 304cm
石座の高さ 252cm〜258cm仏教伝来 -どのようにして仏教が伝わったか-
仏教は、紀元前6世紀(紀元前5世紀説も有)に、インド、ネパール国境付近のシャカ(釈迦)族の王子として生まれた釈尊の教えです。 釈尊は青年時代に、人の生・老・病・死などの苦悩に深い思いをいたし出家。 約6年間にわたる苦行や瞑想により、仏陀(覚者)となられ、 悟りの内容や、だれもが覚者となれる可能性があることなど、その教えを広めました。 日本ではまだ縄文時代で、竪穴式住居に住み、狩りや植物などの採集などで生活していました。 その後、ガンダーラやバーミヤンからシルクロードの長い旅をして、552年(538年という説もある)に百済から日本に伝わったとされています。
釈迦(しゃか)族=ヒマラヤ山麓の小国、ネパール南西部に部族国家を形成した。釈尊の生誕地はルンビニ
釈尊(しゃくそん)=釈迦牟尼世尊の略(釈迦族の聖者)、本名はゴータマ・シッダールタ
仏陀(ぶっだ)=仏、真理を悟った者
入滅(にゅうめつ)=涅槃に入る、仏陀の死
涅槃(ねはん)=煩悩(人の心身をわずらわし悩ませる迷いの心)を断じて絶対自由となる
煩悩(ぼんのう)=人の心身をわずらわし悩ませる迷いの心
ガンダーラ=現在のパキスタンの一地方
バーミヤン=現在のアフガニスタンの一地方
百済(くだら)=現在の朝鮮半島中西部国分寺創建の詔 -なぜ東大寺を建てたか-
仏教伝来後、聖徳太子などが仏教を広めました。その後、藤原京から平城京に都が移ってからまもなく、政変や皇族同士の争い、疫病(えきびょう)、自然災害が多発しました。 天平十三年(741)に聖武天皇は国分寺創建の詔(みことのり)を発し、国ごとに仏像を造り、七重の塔を建て、仏法の力によって国を救おうと考えました。
国分寺創建の詔=国ごと(当時62の国にわけられていた)に鎮護国家のためのお寺を建てる、国分寺と共に国分尼寺も創建
ストゥーパから仏像 -なぜ大仏を造ったか-
仏像は釈尊の死後、約500年たってから始めてつくられたものです。当初、アショーカ王が釈尊の遺骨(舎利)を納めた塔、卒塔婆(ストゥーパ)などを礼拝の対象とし広めました。やがて、釈尊を人間像としてではなく、聖樹(菩提樹)・聖壇(台座)などで象徴し、礼拝するようになりました。 その後、アレクサンダー大王の東方遠征の際、ヘレニズム文化の影響により人間像の仏陀(仏像)が生まれたと言われます。紀元後1~2世紀にガンダーラやマトゥラー(インド)ではじめて仏像が誕生し、シルクロードを経て日本に仏教と共に伝わりました。東大寺の大仏は、中国洛陽の龍門奉先寺の大毘盧舎那仏をモデルにしたといわれ、鎮護国家仏教の拠点である東大寺にふさわしい本尊として造立されました。
アレクサンダー大王=ギリシャの大王、西北インド遠征時にヘレニズム文化を伝える
ヘレニズム文化=ギリシャとオリエントの文化が影響しあいうまれた文化
マトゥラー=現在のインド中部
龍門(りゅうもん)=北魏時代の494年頃から唐代まで石窟が開かれ、 約9万体の仏像があると言われる
奉先寺(ほうせんじ)=唐の則天武后の時代(675年頃)に造立された大仏が有名大仏開眼供養会から現在-その後の大仏-
天平勝宝4年(752年)、大仏さまの目に筆で瞳を描いて魂を迎え入れる儀式-「大仏開眼供養会」-が行われました。 開眼の導師を勤めたのはインドの僧侶、波羅門僧正・菩提僊那(ぼだいせんな)です。 また、中国や朝鮮をはじめ諸外国の珍しい音楽や舞踊などが披露され、当時の東アジアの中では最大級の国際イベントとなりました。東大寺は鎮護国家の役目とともに、仏教の教理を広く研究することが求められていました。華厳、法相、三論などの6宗(南都六宗)を研究する組織が整えられ、六宗兼学の寺として、今で言うところの国立総合大学の機能を持っていました。 その中で最も重んじられたのが華厳宗で、本尊として華厳の盧舎那仏がまつられました。 しかし、斉衡2年(855年)に大地震により仏頭が落下。また、源氏と平氏の戦いのなか、治承4年(1180年)には平重衡の南都焼き討ちにより、大仏殿などが焼失しました。まもなく大仏は修復、大仏殿も再建されましたが、戦国時代の永録10年(1567年)、再び戦火により大仏殿は焼失、大仏も被災してしまいます。雨ざらしとなっていた大仏は修理され、元禄5年(1692年)に開眼供養会が、続いて宝永6年(1709年)には、大仏殿の落成を祝う「落慶供養」が行われました。 その後、明治元年(1868年)に出された神仏分離令(神道を国の宗教とし、仏教と分離する政策)により、南都の諸寺がいずれも衰えたため、大仏殿も世間から顧みられない状況となりますが、困難をおして解体修理が行われました。さらに「昭和の大修理」を経て現在に至っています。
今日の大仏さまは、奈良、鎌倉、室町、江戸の各時代の合作とも言えます。世界が平和で全てのものが栄えることを願って造立された大仏さまは、多くの人々の手で護り伝えられているのです。
出典 奈良市観光協会公式サイト
所在地:奈良市雑司町406-1
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興福寺
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興福寺の特徴
669年に前身寺院が創立されたのがはじまりです。遷都にともなって平城京に移され、興福寺となりました。藤原氏の氏寺ですが、主要堂塔の建立の発願は天皇や皇后によるものが多く、造営工事も政府直営ですすめられました。平安時代以降、たびたび火災にあいましたが、藤原氏の力を背景にそのつど再建されてきました。
五重塔は奈良のまちのシンボルとなっており、猿沢池からのながめは多くの観光客に親しまれています。北円堂(鎌倉時代)・三重塔(鎌倉時代)・五重塔(室町時代)・東金堂(室町時代)の4棟が国宝建造物に指定されています。南都七大寺の中で最も密接に奈良の街とつながりを持ちながら発展した寺。和銅3年(710)藤原不比等が飛鳥から平城京へ前身の厩坂寺を移転したもので、藤原氏の氏寺として、藤原一族の隆盛とともに寺勢を拡大しました。最盛時には数多くの堂塔僧坊が立ち並んでいたといいます。また、神仏習合の影響をうけ、春日社と一体化し、時には僧兵をしたがえて朝廷へ強訴に及ぶまでになりました。治承4年(1180)平家に焼き打ちされ、ほとんどの堂が焼失しますが、直ぐに再建されました。鎌倉時代には大和守護職の実権を握り、実質的に大和国一帯を支配していました。現在の堂塔は、鎌倉以降の建物を一部残し、広い境内に東金堂・中金堂・北円堂・南円堂・五重塔・三重塔・大湯屋・大御堂・国宝館などが建並び、仏教彫刻類は天平時代や鎌倉時代の至宝を数多く保存しています。(中金堂は平成30年(2018)に落慶しました。)
所在地:奈良市登大路町48
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春日大社
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春日大社の特徴
奈良時代の初め、平城京鎮護のために茨城県鹿島の武甕槌命(たけみかづちのみこと)を御蓋山(みかさやま)の山頂に祀ったのが起こりとされています。神護景雲(じんごけいうん)2年(768年)、称徳天皇の勅命により現在の場所に社殿を造営し、千葉県香取から経津主命(ふつぬしのみこと)、大阪府枚岡から天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)をあわせて祀りました。
平安時代になると皇族や貴族の春日詣も盛んになり、20年ごとの式年造替の確立に伴い、本殿以下各社殿は現在のような規模になりました。また中世以降になると武家や庶民にも信仰が広まり、全国各地に3,000社を超える分社が造られるまでになりました。
境内には「万燈籠」で知られるさまざまな形の釣燈籠、石燈籠があり、それらの多くは庶民の寄進によるものだということからも、庶民信仰の深さを伺い知ることができます。毎年2月節分の日と8月14・15日にすべての燈籠に火を入れる「万燈籠」の神事が行なわれ、その幻想的な美しさに、多くの参拝客が訪れます。
所在地:奈良市春日野町160
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春日大社の藤
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春日大社の藤の特徴
我が国最古の万葉植物園である春日大社萬葉植物園には、早咲きから遅咲きまでの20品種、約200本の藤が順に開花(4月中旬~5月中旬)する藤の園があり、一年通しての通常拝観料で参観できます。御本社の砂ずりの藤の見頃はゴールデンウィーク。
春日大社と藤
春日大社の社紋は『下り藤』です。藤は境内随所に古くから自生し、藤原氏ゆかりの藤ということもあり、次第に定紋化されました。御巫の簪、また春日若宮おん祭の「日使」の冠にも藤の造花が見られます。とりわけ御本社の「砂ずりの藤」は、名木として知られています。
藤の名所 萬葉植物園 藤の園
20品種、約200本を植栽しております。
一般的な棚造りではなく、『立ち木造』というこだわりの形式をとり、藤棚のように見上げずに目線で花が観賞できます。そして、花が外向きに咲くことで常に光を浴び美しく見える、まさに自然と一体化した風光優美な庭園になっています。早咲きの頃には、園内中に香りを広げる中国の『麝香藤』や濃いピンク色の『昭和紅藤』など、珍しい藤が多く咲きます。期間の中旬から長い房の藤や『八重黒龍藤』などが咲き始めます。
藤の花の開花時期
開花期間は気候により多少前後しますが、例年4月末頃から5月上旬頃までです。
早咲きの開花から遅咲きが咲き終わるまで約2週間で、すべての藤が一斉に咲き揃うことはありません。
毎年大型連休のころが満開になることが多く、ご来園の方が集中します。ご鑑賞には期間中の平日をおすすめします。藤の種類
『藤の園』には20品種・約200本もの藤の木があります。
山藤系
甲比丹藤 【早咲き】
白甲比丹藤 【早咲き】
昭和紅藤 【早咲き】
岡山一歳藤 【早咲き】
緋ちりめん藤 【早咲き】野田藤系
口紅藤 【早咲き品種】
新紅藤 【早~中咲き品種】
長崎一歳藤 【早咲き品種】
黒龍藤 【中咲き品種】
八重黒龍藤 【中咲き品種】
九尺藤 【中咲き品種】
本紅藤 【中~遅咲き】
海老茶藤 【中咲き】
白野田藤 【遅咲き】支那藤系
白花支那藤 【早咲き】
麝香藤 【早咲き】
所在地:奈良市春日野町160-7
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春日山原始林
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春日山原始林の特徴
春日大社の東側にある春日山は、841年に狩猟と伐採が禁止されて以来、大社の聖域として保護されてきました。カシ、シイ類を主体とした常緑広葉樹林の原始林となっています。昼なお暗い山内には、モリアオガエル、ヒメハルゼミ、カスミサンショウウオなど珍しい動物が生息しています。原生的な状態を維持している照葉樹林としても貴重ですが、日本人の伝統的な自然観とふかく結びついて保護されてきたということが、人とのかかわりを示しています。スケールの大きな鎮守の森なのです。このため、春日大社と一体のものとして文化遺産に含まれています。
昭和30年に特別天然記念物に指定され、また平成10年(1998)世界遺産に登録されました。
所在地:奈良市春日野町
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元興寺
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元興寺の特徴
前身は6世紀末蘇我馬子によって開かれた法興寺(飛鳥寺/明日香村)でしたが、平城遷都に伴い現在地に新築移転され、名も元興寺と改められました。かつては南都七大寺の一つとして威勢を振るい、現在の奈良市街の南東部を占めていました。広大な境内には、金堂・講堂・五重塔・僧房などが立ち並んでいましたが、平安時代半ば、その勢威も衰えてしまいました。現在では僧坊の一角が唯一現存しています。
極楽堂はかつての元興寺僧坊の一部で、鎌倉時代に極楽堂〔国宝〕と禅室〔国宝〕に改築されました。屋根には飛鳥・奈良時代の瓦も現存しています。中世以来庶民の信仰を集め、境内から無数の石仏と民俗資料が発見されています。法輪館には奈良時代の木造五重小塔〔国宝〕木造阿弥陀如来坐像・中世庶民信仰資料〔各重文〕などが多数安置されています。
所在地:奈良市中院町11
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薬師寺
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薬師寺の特徴
今からおよそ1300年前の白鳳時代、天武天皇が皇后・鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ/のちの持統天皇)の病気平癒を祈って発願され、持統天皇が即位してから藤原京に造営されました。その後平城遷都に伴い、養老2年(718)に現在地に移されました。中央に本尊・薬師三尊像をまつる金堂、東西に2基の塔を配する日本初の伽藍配置は「薬師寺式伽藍配置」と呼ばれています。その大きな特徴は、堂塔の各層に裳階(もこし)をつけた壮麗な姿の「龍宮造り」でした。
しかしその華麗な堂塔は数次の火災にあって次々と焼失し、創建当時から現存する建造物は東塔(国宝)のみとなりました。その後、長年のお写経勧進により、昭和51年(1976)に金堂が、昭和56年(1981)には西塔が、その後中門、回廊、玄奘三蔵院伽藍などが復原造営され、平成15年(2003)には大講堂が落慶、平成29年(2017)には食堂(じきどう)も再建、創建当時の壮麗な白鳳伽藍が鮮やかに復興されました。平成10年(1998)、法相宗大本山 薬師寺は「古都奈良の文化財」の構成資産の1つとして、ユネスコの世界遺産に登録されました。
近年では、国宝・東塔の12年に及ぶ全面解体修理が行われ、令和3年(2021)2月に竣工。「凍れる音楽」という愛称で親しまれる美しい姿に蘇りました。薬師寺は、白鳳伽藍とともに国宝・薬師三尊像をはじめとする多くの文化財を継承し、1300年続く祈りを今も伝えています。
所在地:奈良市西ノ京町457
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唐招提寺
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唐招提寺の特徴
聖武天皇の招きに応じ、苦難の末、日本にやってきた唐僧鑑真和上によって建立されました。鑑真和上は日本に着いてから5年間、戒壇院での授戒を制度として確立するために東大寺で過ごしましたが、東大寺を引退された後、故新田部親王(天武天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、そこを「唐律招提」と称し、戒院として教学の場を営むことになりました。やがて鑑真和上を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられ、鑑真和上の没後も金堂や東塔が建立されました。平安時代初頭に伽藍全体が完成し、そのころ「唐律招提」から「唐招提寺」となりました。
所在地:奈良市五条町13-46
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唐招提寺金堂
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唐招提寺金堂の特徴
南大門をくぐった正面にその荘厳な姿を見せる金堂は、8世紀後半の創建時の姿を残す代表的な建築物です。外観は、正面間口七間(中央間は約4.7m、両端へは次第に狭くなり、3.3m)、奥行き四間の寄棟造で、前面一間通りが吹き放ち、軒を支える組み物は三手先(みてさき)と呼ばれる形式で、その建立年代を示しています。堂内は、連子窓から取り入れられた柔らかな光に満たされ、中央に本尊・盧舎那仏坐像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像(いずれも国宝)が並ぶ姿は、天平時代を彷彿させる厳かな雰囲気に包まれています。
唐招提寺は奈良市街の西方、秋篠川西岸に所在する律宗総本山である。天平宝字3年(759)に平城京右京五条二坊の土地を朝廷から賜り、鑑真によって開かれました。
金堂は桁行七間、梁間四間、一重、寄棟造、本瓦葺で南面して建ち、南側一間を吹放ちとしています。金堂は九世紀初頭までに建設されたと考えられ、その後、近世以前には平安時代後期に軒廻りの修理、鎌倉時代に石造須弥壇を築造、元亨年間(一三二一~二四)に屋根葺替、元禄年間(一六八八~一七〇四)に解体修理などの修理が行われました。明治三一年から三二年までの保存修理では解体修理が行われ、小屋組をトラスに置換えました。
唐招提寺金堂は、奈良時代につくられた寺院金堂の唯一の遺構です。後世の修理によって改変を受けていますが、建造物の保存修復の歴史を今に伝えており文化史的な意義が認められます。
所在地:奈良市五条町13-46
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平城宮跡・平城宮跡歴史公園
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平城宮跡・平城宮跡歴史公園の特徴
和銅3年(710年)に藤原京より遷都された平城京の中心であった「平城宮(へいじょうきゅう)」の宮跡で、1998年(平成10年)には「古都奈良の文化財」の構成資産の1つとして、世界遺産に登録されました。長期間にわたって調査や復原整備が進められており、東西1.3km、南北1kmの広大な敷地に第一次大極殿、朱雀門などが復原されています。2018年(平成30年)には5つの複合施設を含む「朱雀門ひろば」がオープンし、平城宮跡歴史公園(正式には「国営飛鳥・平城宮跡歴史公園 平城宮跡区域」)となりました。四季の移り変わりを感じられる自然の風景や、1年を通じて行われる多彩なイベントも見どころです。
出典 奈良市観光協会公式サイト 平城宮跡歴史公園公式サイト
所在地:奈良市二条大路南、奈良市佐紀町
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正倉院
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正倉院の特徴
東大寺を創建した聖武天皇の遺品をはじめとする宝物や東大寺の年中行事用の仏具を納めた倉で、世界的に知られた古美術の宝庫です。校倉造の正倉はあまりに有名で国宝に指定されています。外構は一般公開されており、また宝物の一部は毎年秋、奈良国立博物館で正倉院展として公開されています。
所在地:奈良県奈良市雑司町129
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奈良公園
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奈良公園の特徴
奈良市街の東一帯に広がる、総面積約660ヘクタールという広大な公園。東大寺・興福寺・春日大社・国立博物館などと一体となり、さらに春日山原始林まで取り込む古都にふさわしい雄大な公園です。美しい芝生と樹齢1000年の松木立などの豊かな自然が調和した園内では、約1,300頭の野生のシカが群れ遊び、古都奈良を象徴する観光スポットとして多くの人が訪れています。
所在地:奈良市春日野町ほか
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奈良公園の鹿
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奈良公園の鹿の特徴
奈良公園に生息するシカは国の天然記念物に指定されている野生動物です。 決して飼育されている動物ではありません。野生動物は「無主物」であり、所有者はありません。 だからといって、個人が捕まえたり、傷つけたりすることは違法行為です。シカはかわいい動物ですが、その生態を知らないと被害を受けることもあります。
野生動物ですので、時として攻撃することがあります。シカに突進される・角で突かれる・噛み付かれる・蹴られる等してケガをすることがありますので、不用意にシカに触れたり子どもだけでシカに近寄ったりしないでください。
また、春は出産後のメスジカが我が子を守るため、秋はオスジカが発情期に入るため、気が荒くなっていて人に襲いかかることもありますので、特に注意が必要です。奈良公園では、シカにエサを与えることを禁止しています(鹿せんべいは例外です)。奈良公園のシカは野生動物であり、公園内に生えている植物(シバ、葉っぱ、ドングリなど)を主食とし、それらを自力で食べて生きています。
鹿せんべいはシカの大好物のおやつですが、それ以外の食べ物(お菓子、パン、野菜、残飯など)を与えるとシカが病気になったり、事故につながったりするおそれがあります。絶対に鹿せんべい以外の食べ物を与えないでください。鹿せんべいは、江戸時代から始まった「奈良のシカ」と人とのふれあいに欠かせないものであり、歴史的背景をもつ文化です。
鹿せんべいは、シカにとって安全に作られたおやつであり、その売り上げの一部がシカ保護の費用に充てられていることから、保護と観光振興の観点から例外として認めています。出典 奈良市公式サイト
所在地:所在地:奈良市春日野町ほか
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西大寺本堂
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西大寺本堂の特徴
称徳天皇の勅願により、天平神護元年(765年)に創建されました。当時は広大な寺域に多数の堂塔が建ち並び栄えていました。平安時代には一時衰退しましたが、鎌倉時代に興正菩薩叡尊上人により密教と戒律を不二一体のものとして双修する「真言律」の根本道場として復興されました。現在残っている本堂(重文)、愛染堂(県指定)、四王堂などは江戸時代中期に建てられたものです。叡尊上人が始めた「大茶盛」の寺としても有名です。
所在地:奈良市西大寺芝町1-1-5
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依水園
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依水園の特徴
かつて奈良晒の御用商人が別邸として作った庭園で、昭和50年に国の名勝に指定された。若草山や春日山、東大寺南大門の屋根が借景となり、あたかも若草山の芝生が園内まで続くかのように中の島と築山は芝生でおおわれています。また園内には、寧楽美術館があり、東洋古美術品を収蔵・展示しています。
所在地:奈良市水門町74
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浮見堂
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浮見堂の特徴
奈良公園・鷺池に浮かぶ檜皮葺き(ひわだぶき)、八角堂形式(六角形)のお堂です。水面に写る姿が美しく、水辺の憩いの場となっています。大正5年(1916)に建てられ、昭和41年(1966)に修復、現在の浮見堂は、旧浮見堂が老朽化したために、平成3年から平成6年にかけての3年間の修復工事によって、その美しさを今によみがえらせました。 春日大社より浅茅が原の林をぬけて行くとつきあたります。
出典 奈良市観光協会公式サイト
所在地:奈良県奈良市高畑町
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月ヶ瀬梅林
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月ヶ瀬梅林の特徴
初春を真っ先に感じさせる花と言えば、やっぱり梅。梅の名所「月ヶ瀬」の中央には渓谷美を描きながら五月川が流れ、その両岸に約1万本の梅樹が立ち並びます。この地は「月ヶ瀬梅渓」と言われ、大正11年には名勝地に指定。シーズンになると梅の花を目当てに川沿いを散策する人々が見られます。また、無数の梅が咲き競う姿にまばゆさを感じながら、真福寺や天神社沿いの道を歩く人も。休憩しながら、梅グルメやお餅、山の幸、お茶などがお店でも楽しめます。奈良市中心部から月ヶ瀬梅林までは、車で約1時間、バスであればJR・近鉄奈良駅から約80分。
散策も兼ねて小旅行へ出かけてみてはいかが?出典 奈良市観光協会公式サイト
所在地:奈良市月ヶ瀬尾山
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旧大乗院庭園
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旧大乗院庭園の特徴
旧大乗院庭園は、15世紀の半ば過ぎ、善阿弥とその子が、京都から招かれて改修されたものです。善阿弥は義政に寵愛された作庭の名手。現在は、奈良ホテルのすぐ南にその一部が残されています。また、その一角に建てられた「名勝大乗院庭園文化館」では、かつての大乗院を復元した模型や、関係資料を公開しています。
出典 奈良市観光協会公式サイト
所在地:奈良市高畑町1083-1
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円成寺庭園
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円成寺庭園の特徴
柳生街道随一の名刹で、本堂は藤原期の阿弥陀堂様式の室町建築です。大仏師運慶青年期在銘の大日如来像(国宝)は相應殿に安置されています。また、鎮守春日堂、白山堂(国宝)は、全国最古の春日造社殿となります。円成寺庭園(名勝)は藤原期の浄土式舟遊式の名園です。
名勝庭園
円成寺でまず目に入るのが、楼門前に広がる美しい庭園です。平安時代末期に寛遍上人のころに造成されたと見られています。平安から鎌倉時代にかけて貴族住宅に流行した寝殿造系庭園に類似し、寺院としては阿弥陀堂の前面に広がる浄土式庭園として、奥州平泉(岩手県)の毛越寺庭園とともに貴重な遺構です。
苑池中央と西には中島があり、かつて中央の島には橋が架かっていました。
明治以降、池と伽藍地の間に県道が走り、その景観を著しく損なっていましたが、昭和36年(1961)県道を庭園の南に移し、昭和51年に庭園の復元改修を施行、現在の美しい面目を回復しました。
所在地:奈良市忍辱山町1273
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法華寺庭園
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法華寺庭園の特徴
法華寺は奈良時代総国分尼寺として創建された法華滅罪之寺の法灯を引く尼門跡寺院です。江戸時代に入り、後水尾上皇の皇女で近衛信尋の養女として入寺した高慶尼が秀頼復興後の寺域を整え、客殿は寛文年間御所からの移築、庭園もそのときの作庭で、御所的な雰囲気を感じさせています。庭園は三区からなり、中門から客殿に至る前庭、客殿南面の内庭、上御方西南に広がる主庭からなっています。
前庭は築地によって限られる矩折状の通路で中央部に鱗敷の敷石道を設け、マツ・マキの規則的な植栽列によって縁取られる整形的な格式を感じさせる空間となっています。玄関近くには御所から移植したと伝える梅樹があります。進むに従って通路幅がやや狭くなり、遠近感を演出する構成となっています。
内庭は広くない空間を平庭・露路風に仕上げた瀟洒な庭で、へ字状に折れる透塀で主庭と接し潜門を穿っています。左手に閼伽井・灯籠を配し、右手に捨石一つ、前面に伽藍石を置き若干の高木植栽を配するのみの簡素な構えの壺庭的空間です。
主庭は東から岬状に伸びる築山を包み込むように広がる池を中心とした庭で、岬先端部から池北岸に山形の土橋がかけられています。この土橋を境に東水面には杜若、西水面には蓮が植えられています。上御方正面の築山は透塀潜門東から延びる混植高生垣に巻き込まれるようにして背景(南面)を仕切られています。この築山には枯山水風滝石組と水流を表す砂利敷きが施されていますが、今は灌木が茂りすぎてほとんど見ることはできません。主庭南西隅には高慶尼の元禄14年銘の墓碑があります。
このように法華寺庭園は、三区からなる庭園空間がそれぞれ個性を持って作られていて、尼門跡の格式と優しさを示した御所の雰囲気を感じさせる庭園です。その構成手法は江戸時代前期の特徴を良く表しており、名勝に指定してその保護を図ろうとするものです。
所在地:奈良市法華寺町882
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平城宮東院庭園
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平城宮東院庭園の特徴
「東宮」あるいは「東院」と呼ばれた平城宮跡東の張り出し部分に位置する、優美な庭園。L字型の池を中心に、皇族らが宴会や儀式を行う迎賓館のような役割を果たしていたと考えられています。1967年(昭和42年)に庭園の遺構が発見され、長年の研究成果をもとに1998年(平成10年)に復原されました。2010年(平成22年)には、特に貴重な古代庭園として特別名勝に指定されました。
出典 奈良市観光協会公式サイト
所在地:奈良県奈良市法華寺町480
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その他の名所、イベント
手向山八幡宮
菅原天満宮
率川神社 (本子守町)
漢國神社
氷室神社
奈良豆比古神社
嶋田神社
御霊神社
崇道天皇社
京終天神社
奈良町天神社
瑜伽神社
宅春日神社
鎮宅霊符神社
佐紀神社 (亀畑)
佐紀神社 (西畑)
手力雄神社
采女神社
井上神社
住吉神社 (勝南院町)
住吉神社 (今辻子町)
隼神社
白山神社 (北之庄町)
率川神社 (西新屋町)
白山神社 (元興寺町)
勝手神社
八坂神社
月日神社
春日若宮社 (中辻町)
八王子社
西大寺
大安寺
新薬師寺
霊山寺
帯解寺
伝香寺
秋篠寺
十輪院
法華寺
海龍王寺
不退寺
般若寺
圓成寺
圓照寺
興福院
白毫寺
弘仁寺
正暦寺
称名寺
南明寺
璉珹寺
宝珠寺
正覚寺
称念寺
高林寺
西勝寺
閼伽井庵
興善寺
法徳寺
金躰寺
淨教寺
西福寺
浄福寺
隔夜寺
西照寺
芸亭
申堂
頭塔
御嶽山大和本宮
京終地蔵院
鎧地蔵堂
月日磐
磨崖仏
地獄谷石窟仏
ほうそう地蔵(国の史跡)
地獄谷聖人窟の線刻磨崖仏(国の史跡)
春日山石窟仏(国の史跡)
平城京左京三条二坊宮跡庭園
山辺の道
柳生街道
多聞山城
柳生陣屋跡
奈良国立博物館
旧奈良監獄(重要文化財)
奈良国立博物館
仏教美術資料研究センター
奈良文化財研究所平城宮跡資料館
奈良県立美術館
奈良市美術館
興福寺国宝館
春日大社宝物殿
入江泰吉記念奈良市写真美術館
松伯美術館
大和文華館
中野美術館
寧楽美術館
杉岡華邨書道美術館
奈良町資料館
東洋民俗博物館
時の資料館
古都奈良かんざし美術館
奈良市総合観光案内所(旧駅舎)
イベント
平城宮朱雀門と若草山の山焼き
春日大社万燈籠
春日大社万燈籠
若草山山焼き(1月)
大安寺光仁会(1月)
春日大社万燈籠 (2月、8月)
東大寺修二会(お水取り)(3月)
西大寺大茶盛式(4月)
平城遷都祭(4月)
薪御能(5月)
唐招提寺うちわまき(5月)
率川神社三枝祭-ゆり祭-(6月)
大安寺竹供養(6月)
なら燈花会(8月)
大文字送り火(8月)
バサラ祭り(8月)
芝能(9月)
采女祭(9月)
鹿の角きり(10月)
奈良市内旧村地域の秋祭り(10月)
10月10日前後に郊外部、10月17日前後に市街地部で布団太鼓(太鼓台)や地車などの練り歩きがある。
正倉院展
正倉院展の開催時には奈良市及びその周辺の多くの寺社が秘仏の特別開扉や特別展示などを行う。
奈良マラソン(12月)
春日若宮おん祭(12月)
スポーツチーム
サッカー
奈良クラブ(Jリーグ)
バスケットボール
バンビシャス奈良(Bリーグ)
バレーボール
奈良ドリーマーズ(Vリーグ)
ホッケー
南都銀行SHOOTING STARS(ホッケー日本リーグ)
自転車ロードレース
シエルヴォ奈良
奈良市の名物、名店、グルメ、お土産
大和茶
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大和茶の特徴
大同元年(806年)に弘法大師が唐より茶の種子を持ち帰り、宇陀に播種して製法を伝えたのが大和茶の起こり。
朝晩の温度差が激しい大和高原で栽培される大和茶。
きびしい自然条件で栽培される大和茶は深みのある味わいで、二煎・三煎まで美味しく、そして、より多くのカテキンが含まれています。
他府県産銘柄茶より少し長めに急須のお湯に浸して飲むのが大和茶の美味しさを感じていただける秘訣です。
渋みの中に旨味を味わっていただき、「あと味すっきり」
古来から万病に効く薬として重宝され、今では、日本緑茶の持つ成分(カテキン・テアニン・ビタミンC、A、E・カフェイン等)効用が学術的に解明され、嗜好品を越えた健康飲料として生活に溶け込んでいます。歴史的背景や地理的背景
大和茶は大同元年(806年)に弘法大師が中国より茶の種を持ち帰り、奈良の地に植えさせたのがはじめとつたえられています。
大和茶は主に奈良県東北部の大和高原一帯の山間地で生産されています。この地域は、標高200~500mで平均気温13~15℃、降雨量 1500mmの山間冷涼地で、日照時間も短く、昼夜の温度差も大きく、良質茶生産に適した条件がそろっています。奈良「大和茶」は日本のハイランドティー
日本人の心に潤いと安らぎを与えてくれ、ふっと口にするだけで、気持ちを落ち着かせてくれる不思議な飲み物お茶(日本緑茶)。お茶の魅力は、香りや味だけにとどまらず、古くは栄西禅師が「茶は養生の仙薬、延命の妙薬なり」と記したように、古来から万病に効く薬として重宝され、今では、日本緑茶の持つ成分(カテキン・テアニン・ビタミンC、A、E・カフェイン等)効用が学術的に解明され、嗜好品を越えた健康飲料として生活に溶け込み現在、世界的に注目されています。
わが国ではじめてお茶がお供えされたのは、天平元年(729年)のこと、聖武天皇の時代の記録に、「宮中に僧を召して茶を賜った」(公事根源より)と記されているのが最初といわれています。また、茶樹の栽培歴史においても、大同元年(806年)に弘法大師が唐より茶の種子を持ち帰り、弟子の堅恵大徳が宇陀市榛原赤埴の佛隆寺に播種され、その製法を伝えられたのが、「大和茶」のはじめといわれております。以来、「ひむがしの野にかぎろひの立つみえて」の歌で知られる、大和高原(奈良市東部山間、天理市、山添村、宇陀市)、この地域は標高300m以上、朝晩の温度差が激しい高冷地です。平均気温や日照時間などがお茶が育つぎりぎりの条件なので、お茶はゆっくりと育っていき、その分香り高い良質な茶が出来ます。又、吉野川流域の大淀町、東吉野村に於いても、恵まれた自然条件を生かして茶栽培されており、奈良県の茶栽培は、かぶせ茶やてん茶、番茶が生産され、全国6~7番目の産地形成が成されています。
紅茶でダージリンといえば、マスカットに似た香りがするともいわれる高級な茶葉、インドの高冷地で栽培される「ハイランドティー」です。言ってみれば、奈良「大和茶」は日本の「ハイランドティー」です。きびしい自然条件で栽培される大和茶は深みのある味わいを感じていただき、二煎・三煎まで美味しく、そして、より多くのカテキンをお飲みいただけます。他府県産銘柄茶より少し長めに急須のお湯に浸してお飲みいただくことが大和茶の美味しさをお口いっぱい感じていただける秘訣です。渋みの中に旨味を味わっていただき、「あと味すっきり」、お茶なら「大和茶」を是非ご愛飲ください。
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古都華
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古都華の特徴
古都・奈良を飾る新しい「華」になってほしい、そんな想いから名づけられたいちごが、 2011年に品種登録された「古都華」です。
古都華は、まだまだ新人の名産品。
「このおいしさを知ってもらいたい!」と、生産者さんやシェフたちが、日々、情熱を燃やしています。
つやつやと赤く輝くひと粒を口に運べば、 その味の甘さや濃さ、みずみずしい果汁、甘酸っぱい香りに、すぐ次のひと粒を求めてしまう…
古都華は、食べると、驚きとともに、笑顔と口いっぱいの幸せをくれる、実は魔法のフルーツなのです。奈良オリジナルの希少品種 古都華の誕生秘話
品種登録をしたのは2011年ですが、新しい奈良のブランドいちごをつくるため、初めて古都華の基となる種をまいたのは、1989年のこと。
毎年約3,000株の新品種候補を育て、いいものだけ残すことを繰り返すこと数年、古都華が残り続けたのは、シンプルに「おいしい」からでした。
古都華の歴史は、まだ始まったばかりです。いずれ、「いちごと言えば古都華」となる未来もあるかもしれません。味わいも粒の美しさも、納得の自信作
甘さと酸味の絶妙なバランス
平均糖度12~13度と、一般的ないちごより甘い古都華。やさしい酸味もあり、より甘さが際立っています。
さらに、その味わいをさらにパワーアップさせているのが、味の濃さです。どこを食べても水っぽさのない、濃厚果汁が楽しめます。
つやつやに光輝く、濃赤の宝石果皮は濃いルビー色。全体的にツヤがあり、宝石のように美しい表情を見せてくれます。実は大粒で固く、しっかりした歯ごたえが特徴です。
一番おいしいのは、やはり摘みたて。ぜひ一度は農家さんの直売所を訪れて、どこよりもフレッシュな古都華を味わってみてください。出典 奈良市公式サイト
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奈良漬
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奈良漬の特徴
奈良漬起源(歴史)
奈良漬の歴史は古く、奈良漬の最古の記録は、奈良時代にまでさかのぼります。
昭和63年奈良市二条大路のデパート建設現場で発掘調査された時に、「長屋王邸跡」から出土した木簡に『進物加須津毛瓜(たてまつりものかすづけうり)加須津韓奈須比(かすづけかんなすび)』とありました。当時はドブロクの上澄みを酒として飲み、 下に溜まったドロドロした中に塩漬野菜を漬けたものが保存食、香の物として珍重されていたようです。
「奈良漬け」は元々は瓜の粕漬で、その言葉は1492年(明応元年)「山科家礼記」に登場します。
江戸時代に入り、奈良・中筋町に住んでいた漢方医糸屋宗仙(慶長年間)が「シロウリ」の粕漬けを「奈良漬」という名で初めて売り出し、徳川家康に献上したといわれています。奈良漬は粕漬から
歴史を紐解くと、奈良漬の最古の記録は、昭和63年に長屋王(684年~729年)の屋敷跡発掘調査の際に多くの出土品と共に「進物加須津毛瓜(たてまつりものかすづけけうり)」等の記載がある木簡が発見されました。
平安時代中期に入ると、延長5年(927年)に編纂された延喜式の中に多くのことが記載され、その中の1つに「粕漬」という名で、瓜、冬瓜・ナスが記載されていたようです。
当時の酒といえば現在の透明度のあるお酒とは違い、白く濁ったどぶろくを指していました。粕とは搾り粕ではなく、どぶろくの底に溜まるドロッとした沈殿物の染(おり)に野菜を漬けこんだものを当時の上流階級の保存食・香の物として珍重されていたようで、高級食として扱われていたようです。奈良漬と呼ばれるように
「ナラツケ」、その言葉は1492年(明応元年)に「山科家礼記」に最初に登場します。当時から奈良の土産として人気があったようです。その後、1590年(天正18年)の「北野社家日記」や1597年(慶長2年)の「神屋宗湛献立日記」にも記載があり、たびたび登場して広く周知されていきます。
幕府へ献上
時は江戸時代、奈良中筋町に住んでいた医者であった糸屋宗仙(1596年~1615年)はシロウリの粕漬を「奈良漬」の名前で商品として売り出したところ、とてもおいしいと評判になりました。大坂夏の陣の時に徳川家康に献上したところ大変気に入られ、やがては江戸に呼び寄せられ、奈良漬作りの幕府御用商人にさせたと伝えられています。
清酒のはじまりと奈良漬
奈良県は歴史が古く、「はじまり」はたくさんあります。日本清酒の「はじまり」は、奈良市東南に位置する「菩提山 正暦寺」にありました。正暦3年(992年)創建され、室町時代には当時最先端である酒造技術を確立するなど近代醸造法の基礎となりました。
酒造技術が向上するにつれて、酒を絞った粕で塩漬けした後のお野菜を漬ける現在の奈良漬製法の基礎が確立されました。土用の丑の日と奈良漬
暑い夏を乗り切ろうと、「土用の丑の日」には鰻を食べる文化が日本にはあります。諸説ありますが、平賀源内が最初に始めたといわれています。鰻と奈良漬の組み合わせがベストマッチだと、昔から鰻の添えものとされ、いくつかその理由があります。
1.奈良漬酒精分が鰻の脂分を分解し、口直しに良い
2.江戸時代から、奈良漬の瓜は「うなぎ」と共に「う」がつくもので、縁起が良く食せば健康になると言われています。
3.奈良漬の成分であるメラノイジンが、うなぎに含まれるビタミン・ミネラルの吸収を助け、スタミナ強化、ストレス解消、血流改善、便秘解消に良いと言われています。また、活性酵素によって酸化を抑える「抗酸化作用」があり、体の中を錆びさせないと言われています。
メラノイジン
奈良漬の野菜は黒く、酒粕はべっ甲色でとても鮮やかです。お酒を造る際に絞ってできる酒粕は真っ白ですが、アミノ酸と糖質が結合してできた褐色の物質「メラノイジン」が、長い時の間に発酵・熟成の工程を繰り返し、宝石のような美しい酒粕になります。
出典 総本舗 増田屋公式サイト
奈良漬けの作り方(漬け方) – How to make Narazuke (vegetables pickled in sake lees)
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日本酒
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奈良市の日本酒の特徴
奈良時代や平安時代初期、お酒は朝廷内で造られていましたが、次第にお寺で造られるようになりました。なかでも、興福寺大乗院の別院だった正暦寺は、大量の僧坊酒(僧侶が醸造するお酒)を造る大寺院でした。かつて日本酒は白く濁った濁酒でしたが、室町時代、正暦寺で「菩提酛(ぼだいもと)造り」という革新的な酒造りが確立され、現代の私たちが目にする、あの透き通った「清酒」の原点が誕生しました。
その後「菩提酛造り」はいったん途絶え、幻の醸造法となりますが、1999年に有志らが集い、500年ぶりに復活。現在は県内8社の酒蔵が集まり、毎年1月に境内で菩提酛という酒母を造り、各蔵に持ち帰って醸造しています。できあがったお酒は正暦寺で購入することができます。日本最古の神社の一つ・大神神社(おおみわじんじゃ)は、酒造りの神様として信仰を集めています。『日本書紀』によると、崇神(すじん)天皇の御代、流行していた疫病をおさめるため、神様に供えるためのお酒造りを高橋活日命(たかはしいくひのみこと)に命じます。活日は一夜にして美酒を醸し神様に供えると疫病がおさまりました。活日は「大物主大神(おおものぬしのおおかみ)のお力でこのような美酒を醸すことができたのです」と歌に詠み、以来ご祭神の大物主大神は酒造りの神様として敬われるようになりました。
活日は杜氏の祖神として境内の活日神社に祀られています。かつては全国の大きな神社で酒造りが行われていましたが、現在唯一、神社で醸造施設が残っているのが春日大社です。御本殿の回廊の西側にある酒殿(さかどの)は、貞観元年(859年)に創建された現存する最古の酒蔵。酒弥豆男神(さかみずおのかみ)と酒弥豆売神(さかみずめのかみ)をご祭神としてお祀りしています。『続日本記』の天平勝宝2年(750年)に「春日酒殿」の記述があることから、創建は更にさかのぼる可能性が高いとみられます。内部には大甕(おおがめ)が置かれ、現在も、毎年3月13日に行われる例祭「春日祭」にお供えする濁酒を醸造しています。
出典 いざいざ奈良
赤膚焼
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赤膚焼の特徴
現在の赤膚町を中心とする西の京丘陵一帯は、古くからの窯業地で、土器、火鉢などの制作が盛んに行われ、貴族や諸社寺の需要に応えていたと思われます。
後に茶の湯がおこると土風炉が作られるようになり、桃山時代の天正慶長の頃には、大和郡山城主大和大納言秀長が尾張常滑から陶工与九郎を招いて風炉をはじめ茶陶を作らせたとされています。
江戸時代に入ると、元和年間(1615~1624)には遠州流の開祖小堀遠州が好みの陶器を作らせ茶道具として世にしらせたとも、また正保年間(1644~1648)には、京都より野々村仁清が来て京風の茶器の製法を指導したとも伝えられています。
その後江戸中期には、大和郡山城主柳沢堯山公が京都清水より陶工伊之助、治兵衛の二人を招き、窯を復興し、郡山藩御用窯として保護奨励することになります。楽焼茶碗を堯山公に献じて木兎の号を得た郡山藩の御殿医青木木兎や大和郡山市内で小間物商を営みながら楽焼を始め、多くの名作を今に残す奥田木白らによって赤膚焼の声価を全国に高めました。
現在は、この伝統の上に新境地を求める作家もあり、奈良固有の焼物として愛好されています。出典 奈良市公式サイト
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奈良筆
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奈良筆の特徴
奈良筆は、奈良県奈良市大和郡山市周辺で作られる筆。古くから継承される伝統を高く評価され、昭和52年10月に伝統的工芸品としての指定を受けた。材料である獣毛の選択から仕上げまでが全て職人の手作業で行われる。
雄大で微細な表現は書・絵に関わらず長きに渡り多くの人を魅了してきた。
一般的な筆作りは機械を導入して分業することが多いが、奈良筆では一切機械を使わず、材料の仕入れから仕上げまでの工程全てを筆匠一人で行う。筆匠の卓越した技術や目利きによって作られる奈良筆は、通常の筆よりも穂先の仕上がりが鋭く、美しい形に仕上がる。
奈良筆の最大の特徴は「練り混ぜ法」と呼ばれる技術を用いて筆が作られることである。「練り混ぜ法」とは、奈良筆で用いられる十数種類の獣毛を混ぜ合わせ、筆の使用目的に合った筆を作り上げる技法である。使われる獣毛の質はその採取時期や部位によって違いが生じてくるため、筆匠には獣毛を一本一本選別する洗練された技術が求められる。
奈良筆の材料である、原毛を練り混ぜる際にはそれぞれの特徴が引き立つように、筆匠は絶妙なバランスで練り混ぜる。この練り混ぜの工程が筆作りで最も難しいとされており、一流の筆匠でも技術を習得するのには相当な年月を要する。
このように原毛一本一本から作り上げられる奈良筆の製法では個人の希望に合った筆を作りやすく、オーダーメイドの注文も多い。今でも書道を始め、水彩画や水墨画といった芸術分野において未だに根強い人気を集め、愛用されている。
筆匠の魂を吹き込むようにして作り上げられる奈良筆は、筆自体が芸術作品と言われるほどの逸品である。
「奈良筆」の歴史
国内では江戸筆、熊野筆など様々な筆の種類があるが、それぞれのルーツを辿っていくと奈良筆に行き着くと言われるほど、その歴史は長い。
日本の筆の歴史が始まった飛鳥時代
飛鳥時代、中国文化が日本に伝来し始めたと同時に中国製の筆が国内へ多く輸入されるようになる。また奈良時代に入ると、日本は仏教文化の影響を強く受けるようになり、写経が広まったことで筆の需要も高まった。
正倉院にはこの時代の筆が数多く確認されており、輸入品だけでなく、国内でも筆が製造されていたのではと言われている。
平安時代〜奈良筆の誕生
9世紀頃、空海が遣唐使として唐から帰国した際に、中国の文化や仏法、その他多くの美術品を持ち帰ってきた。その中の一つが筆の作り方であり、空海の監督の元、中国の最新の毛筆製法を教わった坂名井清川 (さかないのきよかわ) が大和国で筆を作り始め、完成した筆を嵯峨天皇に献上したことが記録に残っている。この毛筆製法こそ奈良筆の起源である。
鎌倉・室町時代〜武士への普及
この時代から武家と僧侶が台頭し、書道が貴族だけでなく武士や僧侶のたしなみとしても浸透し始める。さらに、中国から来日した禅僧によって禅様 (墨跡) と呼ばれる書風が広まり、芸術分野においても奈良筆の需要が高まっていく。また室町時代には「御用筆師」と言われる大名に筆をおろす職人も表れ、奈良筆の質や生成技術はより一段と向上していくこととなった。
江戸時代〜庶民に親しまれた奈良筆
この時代、多くの筆職人が奈良町 (現在のならまち・きたまちエリア) に居を構え、全国に多くの奈良筆を送り出していた。特に書家の間では奈良筆はなくてはならない存在となり、高い評価を受けていた。一方で生活の苦しい下級武士の間で筆作りが流行し、新しい製法での筆作りも表れ始める。熊野筆や江戸筆はこの時代から誕生したと言われる。
教育、芸術の分野で支持を集める明治・大正時代教育の文化が発展を遂げ、読み書きに使われる筆は必要不可欠な道具となる。この時期から一般庶民の間でも筆は文房具として広く普及し使われるようになった。書道家や芸術家の間ではより品質の高い筆が求められるようになり、中でも奈良筆は高級品として重宝され、高い支持を集めていた。
昭和時代〜伝統的工芸品として認定
昭和52年の10月に、奈良筆は伝統的工芸品産業の振興に関する法律により通産大臣の認定を受け、伝統的工芸品に指定される。新潟県、広島県、愛知県、宮城県でも筆の生産が行われているが、今日でも奈良筆は高級品として多くの人々から愛用されている。
現在の奈良筆
奈良筆の制作には鹿や羊、リスやムササビ、タヌキなど様々な獣毛を使う。昔に比べて獣毛の入手が難しくなり、最近では化学繊維で作られた筆も流通するようになっている。しかし、今なお奈良筆は選び抜かれた獣毛と、長年受け継がれてきた職人の手作業によって、高級筆という不動の地位で芸術家、書家の心を掴み、高い評価を受けている。
また、近年では奈良筆の製法を活かした新しい文房具も誕生している。約300年間、奈良筆の伝統を継承している筆専門メーカーの「あかしや」では、奈良筆と全く同じ技術や素材で作られている筆ペン「彩」を発売している。
出典 中川政七商店公式サイト
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奈良墨
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奈良墨の特徴
奈良の墨は古く天平時代から1300年の歴史をもつ奈良を代表する伝統産業であり、全国的にも認知されています。
各地で開催される伝統工芸展に参加出品し、墨のもつ工芸品としての価値をアピールしています。
また、書道の発展と共に墨に対する多様なニーズが生れ、これらのニーズに応えるため、品質の向上に努め、新製品の開発に力を注いでいます。現在10社の組合員企業が、年間70万丁の墨の生産を行ない、全国の書道家、水墨画家、書写書道教育、書道愛好家に対し、その需要の95%を供給しています。
墨は炭素末(たんそまつ)(煤=すす)と膠(にかわ)と少しの香料をねり合せてできています。すすは、黒々とした墨の色を示し、膠は紙や木に書かれたすすを定着させる働きをし、香料は膠のにおいを消し、清い香りをもって書く人の気持ちをやわらげる役割をはたします。墨は気温が高く湿気の多い夏場は膠がくさりやすく、墨づくりには適しません。そのため墨づくりは毎年10月中旬から翌年4月下旬までの寒期に行ないます。こうしてできる墨の起源は、中国、殷の時代(紀元前1,500年頃、約3500年前)にさかのぼります。そして漢の時代に入り、後漢(25~220)の時、105年に蔡倫(さいりん)が紙を発明し、これに伴ない墨の需要が急速に高まり、現在ある墨の原形となるものが生れ、唐の時代(618~907)には今日の墨の形が整えられました。この頃には中国、朝鮮、日本の交流は盛んになり、当時の墨が日本に伝来し、正倉院に今もなお宝蔵されています。中国四千年の歴史や文化、飛鳥(あすか)時代からの日本の歴史や文化は、墨によって今に伝えられました。千年以上をへた書跡に残る鮮やかな墨の色を見る時、墨のいのちの長さに感嘆せざるをえません。墨は筆記具としての使命をはたしつつ、書画芸術の担い手としてそ の墨色が大変重要になってまいります。「墨は黒いだけでなく、その黒の中に七色を味わうというように、まず紫光色がよく、黒色はその次であり、青光色は更にその次となる。しかもそれはうわついた光ではなく底光するような色で、硯ですってみて清い香りがし、音のしないものがよい」と言われています。
我国は飛鳥時代には中国(隋・唐)や朝鮮半島の国々(百済・髙句麗・新羅)と盛んに交流し、それらの国々の政治や文化を次々と取り入れて行きました。日本書記巻二十二、推古天皇の条に、「十八年春三月、髙麗(こま)の王、僧曇徴(どんちょう)と法定(ほうじょう)とを貢上(たてまつ)りき。曇徴、五経を知り、またよく彩色及び紙墨を作り・・・」とあります。これが、我国に墨がもたらされたことを告げる最初の文献です。推古天皇十八年は西暦610年に当たります。大化改新で制定された「大宝律令」には、中央官庁八省のうちに中務省があり、製墨を司どる省として造墨手が置かれました。奈良時代に入ると仏教が大いに興り、写経生たちは膨大な量の写経を行ない、中でも墨は貴重品扱いされていました。正倉院には、現在する最古の墨(墨14丁、白墨2丁)が保存されています。「華烟飛龍鳳皇極貞家墨」「新羅揚家上墨」「新羅武家上墨」が特に有名です。平城京では、図書寮(ずしょりょう)で造墨手4人で400丁余りの墨がつくられていました。 平安時代に入りますと、仮名文字が発明され、文字が一般化されて墨の需要が一段と高まりました。この時代に制定された「延喜式」によりますと、墨は奈良だけでなく、丹波国、播磨国、大宰府でもつくられたことが記され、また平安後期には、紀州藤白(代)墨、播磨淡路墨が有名ですが、墨の原料の「すす=煤」を松の木やヤニを燃して採取することから、松の豊富な山をもつこれらの地域で「すす」を採り、墨をつくったのでした。
平安時代には、我国の各地でつくられていた墨も時代の変遷と共に次第に途絶えて行きます。その中で、奈良の墨は、寺社を中心としてつくり続けられました。
奈良の墨の歴史をひもとくに、興福寺との関係が大変重要です。それは、奈良時代に藤原氏の氏寺として興福寺が建立せられ、藤原氏の隆盛と共に興福寺の財力が豊かになり、灯明に使う胡麻油、筆記や写経、春日版と言われる木版摺りの経典に使う墨の生産などを一手にしていました。特に墨は、興福寺ニ諦坊(にたいぼう)に造墨手を置き、かなりの量がつくられていたと思われます。貝原好古が『和漢事始』(1697)で、「中世南都興福寺のニ諦坊、持仏堂の灯(ともし)の烟(けむり)の屋宇(やね)にくすぼり滞(たま)るものを取りて、膠(にかわ)に和して墨を作る。これ南都油煙墨の始まりといへり」と記しています。また、貝原益軒は「扶桑紀勝」(1745)で、「奈良の墨は明徳・応永のころ興福寺ニ諦坊で製するところが始まりである」とも記しています。明徳・応永は、1390~1428年で、室町時代にあたります。当時、中国は宋の時代にあり、日宋貿易が盛んに行なわれ、中国ではすでに原料である「すす=煤」を植物油を燃やして採っており、この墨を油煙墨(ゆえんぼく)と言いますが、唐墨(からすみ)と称して我国では貴族達が珍重しておりました。我国の墨と言えば、まだ松を燃やして「すす」を採り、これを松煙墨と言いますが、墨をつくるという古来ながらの製法で、墨の色は圧倒的に油煙墨が黒く、品質的にも松煙墨にくらべて格段の差がありました。その油煙墨が興福寺ニ諦坊ではじめてつくられました。さらに興福寺は「すす」を採る原料の胡麻油をも一手にしていたので、多量の油煙墨をつくるのは容易なことでした。南都(奈良)の墨=油煙墨として、これまで作られていた松煙墨とは、墨の色、艶、磨(す)り心地など品質的に圧倒的な優位に立ち、全国に知られるようになりました。興福寺ニ諦坊でつくられていた墨の墨型(銅製)が今もなお残されています。こうして有名になった奈良の墨は、南都油煙と呼ばれ、墨の代名詞にもなりました。
奈良の墨がさらに有名になってゆくのは、応仁の乱をへて戦国時代に入り、織田信長、豊臣秀吉が天下を統一した頃からと思われます。それまでの墨づくりは、寺社の指図によって墨工が原料を寺社からもらい受け、墨をつくって納めるといった職人仕事でした。信長の天下統一と共に奈良の町も次第に寺社の力が弱まり、さらに信長・秀吉の商工業振興策によって、墨工が墨屋として店舗を構え、商売をするようになりました。その代表は、天正年間に創業したと言われる松井道珍で、「古梅園」として400年を経た今もなお健在です。奈良の墨が南都油煙としてさらに発展するのは、原料の「すす=油煙」の採取が、秀吉の時代、日明(にちみん)貿易で伝来した菜種油によって従来の胡麻油よりもさらに容易となったからでした。油煙が大量に生産されるようになるとさらに多量の墨がつくられ、南都油煙は奈良の名産品として大いにもてはやされるようになり、墨づくりは寺院から町方の仕事に大きく移り進んで行きました。
江戸時代に入りますと、奈良は幕府の直轄地となり、奈良奉行が置かれ、その指導のもとで奈良町が形成され、商工業は猿沢池を中心にその南・北に拡って行きました。
寛文10(1670)年には、すでに30軒に近い墨屋が奈良町に点在していた記録が残されています。江戸時代の中期に至ると、宝永7(1710)年には40軒を数えるほどに隆盛します。この頃には墨は筆と共に文房具として需要が高まり、また奈良見物のみやげ品として求められました。このように隆盛の一途であった南都油煙墨も、寛保年間(1741~1744)になって衰えてまいります。平安時代盛んにつくられていた紀州藤白墨を、紀伊徳川家が再興を図り、良質な松煙墨を世に送り出し、紀伊徳川家出身の吉宗が幕府御用墨として援助したために、市場でも好評をもって迎えられました。これにより独占的であった奈良の墨も窮地に立たされますが、油煙墨だけをつくるのではなく、藤白墨にまけぬ松煙墨をも作り、なんとかNO.1の地位を保ち続けました。この頃には墨屋は18軒に減少しています。
幕末に迫り、慶長18年、奈良奉行として赴任して来た川路聖謨(かわじとしあきら)は衰退の一方をたどる奈良の産業の復興に力を尽くしました。
墨づくりについても業者援助を惜しみませんでした。
しかしながら安政の大地震、黒船の来航等幕末の内憂外患によって、奈良の産業は潰滅的になり、元年には11軒の墨屋しか残らぬ状況で明治維新を迎えました。明治元年の墨屋は、
北室町 大森佐渡
三条町 墨屋 中林嘉助
椿井町 古梅園
南市町 墨甚
墨屋茂助
中筋町 墨七
今小路町 墨利
椿井町 大森孝七
南新町 墨屋久平
下三条町 墨屋 大森兵助
内侍原町 墨喜の11軒です。
出典 奈良製墨組合公式サイト
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奈良一刀彫・奈良人形
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奈良一刀彫・奈良人形の特徴
一刀彫人形は奈良の地で、親から子へ代々受け継がれてきました。
その起源は約890年前、平安時代の終わりごろ春日大社の祭礼で飾られたものだといわれています。それらは神事に使われるものなので、なるべく人の手が触れないように、簡素なものであり、またその当時から一刀彫の大きな特長である彩色は施されていました。江戸時代に入ると、それまで祭礼にのみ使われていた一刀彫が、節句人形や観賞用人形などに使われるようになり、美術品として一般の人々にも愛好されるものになりました。
そして、名匠と名高い森川杜園(1820~1894)によって、一刀彫の名は一気に日本中に広まりました。
杜園は、それまで簡素にデフォルメされていた一刀彫人形に写実性と動きを加え、芸術作品にまで高めました。国内のさまざまな博覧会で絶賛され、日本を代表する工芸美術品として、1893年にはアメリカで行なわれたシカゴ万国博覧会にも出陳されました。一刀彫は伝統を守りながら、その時代その時代に合わせて形を変え、現在も日本を代表する伝統工芸品の一つとして、たくさんの人達に愛されています。
一刀彫の特長はなんといっても、その大胆で力強い鑿跡を残した造形と、繊細で緻密な極彩色の絶妙な調和でしょう。
すべてを曲面にしてしまうのではなく、あえて鑿跡を残す事によって、木の温もりをも感じさせ、鋭く美しい動きを表現している木面、そしてそれを鮮やかに彩る金箔や岩絵具による華麗な色彩は、薪能の装束から影響を受けたもので、雅な宮廷文化を思い起こさせてくれます。
人形には、その土地の思いが染み込んでいくといいます。
奈良人形とも呼ばれる一刀彫には、奈良の雅な文化が染み込み、いつまでも変わらない本物の素晴らしさを次の世代にも伝え続けています。出典 誠美堂公式サイト
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螺鈿漆器
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螺鈿漆器の特徴
正倉院や春日大社に今も伝わる漆工芸品には、漆塗りの部分に美しく光る貝をはめ込む、螺鈿(らでん)という技術が使われています。そんな美しい漆工芸の技術が今も奈良で伝えられています。
奈良漆器の特徴
まずは螺鈿と呼ばれる貝を用いた装飾です。奈良の螺鈿は厚みのある夜光貝などの貝の板を精巧に加工する技術が特徴です。貝の輝きに奥行きがあり、品格の高い仕上がりになります。さらに、水晶や琥珀(こはく)、タイマイなど、国際色豊かな素材を用いることも特徴です。奈良時代に大陸から伝わった貴重な漆工芸品が残る奈良らしい技術です。
作り方
漆を塗る土台となるものを形づくります。檜(ひのき)の薄い板を曲げたり重ねたりして、形を作ります。麻布を貼った上に下地を作り漆を塗っては研ぐことを何度も繰り返します。螺鈿の原料の夜光貝を糸鋸(いとのこぎり)などで細かく切って文様を作ります。蒔絵(まきえ)の場合は、漆を塗った部分に金粉などを蒔(ま)きます。螺鈿も蒔絵も、貝や金粉の上から一旦漆を塗り込めます。最後に慎重に漆を研ぎ出すと、下から螺鈿や蒔絵文様が姿を現します。
出典 奈良県公式サイト
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奈良団扇
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奈良団扇の特徴
奈良団扇の歴史は古く、春日大社の神官によって1,300年前に日本で初めて作られた「禰宜うちわ」を基として考案されました。奈良団扇の特徴は、透し彫りによって作られる華やかで美しい見た目はもちろんのこと、骨組みが一般的な団扇の倍以上の骨数があるため、よくしなり良い風をおこします。
団扇は古代、中国より魔よけとして日本に伝わり、儀式的なものに使用されていたようです。奈良団扇の起源は、奈良時代に春日大社の神官の手内職として、実用的で丈夫な渋団扇が大々的に作られていました。中世に新しい団扇が考案されてから次第に洗練され、江戸時代の中頃には、今日奈良団扇の特徴である透し彫りの施された立派な団扇に進展しました。
出典 池田含香堂公式サイト
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中谷堂のよもぎ餅
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中谷堂のよもぎ餅の特徴
美味しいよもぎ餅で有名な和菓子屋さん
当店では美味しいお餅を提供するために高速で餅をついています。売れ行きを見ながらついているため、時刻を決めてつくことができずメールやお電話のお問い合わせでは時刻をお伝えできません。高速餅つきを見たい方は店頭で「次の餅つきは何時ごろ?」とお尋ねください。
餅つきには、つき手と返し手の呼吸を合わせることはもちろん、餅全体を臼の中でまんべんなくつく技術や水分量の調節など、高度な技術とスピードが要求されます。餅米の温度が低くなるとデンプンの成分が絡みにくくなり、切れやすく伸びにくい餅になってしまいます。
「速い餅つき」は、やわらかくてよく伸びて、でもコシのある餅に仕上がります。これは、店主の故郷である吉野郡上北山村に古くから伝わる餅つきの方法で、湯気が上がるほどの熱い状態の餅米を、ものすごい速さでつくのが特徴です。また、上北山村は山奥にあり、餅つきが行われる冬はとても寒いので、餅が冷めてしまわないようにするための先人の知恵ではないかと考えられています。
素材は全て、国産のものを使用しています。
『佐賀県産』のひよくもち米、『北海道十勝産』の中でも上質な小豆、国産きな粉、『愛媛県宇和島産』のよもぎの新芽を用いています。作り方と材料にとことんこだわっています。
また、よもぎ餅に入れる餡は粒餡を使用。小豆の風味を残しながら、甘さ控えめに仕上げました。出典 中谷堂公式サイト
住所:奈良県奈良市橋本町29
お問い合わせ:0742-23-0141
ガトー・ド・ボワ A LA MAISONの洋菓子
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ガトー・ド・ボワ A LA MAISONの洋菓子の特徴
人気の洋菓子屋さん
まるで宝石のように美しく繊細なお菓子が並ぶショーケース。その宝石たちを眺める人の顔には、思わず笑みが浮かぶ。奈良の西大寺に本店を構える『GATEAU DES BOIS(ガトー・ド・ボワ)』。「お菓子作りを通して、みんなを笑顔にしたい。」やさしい口調でそう語るのは、オーナーシェフの林 雅彦氏。洋菓子の本場フランスで、2年に1度開催されるお菓子の世界大会、『La Coupe du Monde de la Patisserie(クープ デュ モンド パティスリー)』。 1991年、林シェフはこの大会で史上初、フランス人を負かして“世界チャンピオン”の座を獲得した日本人。その後も日々努力と研究を重ね、常に新しいお菓子を生み出し続ける。「自分の目の届く範囲で」にこだわり、お店は奈良の西大寺にある本店とラボの2店のみ。世界トップレベルのお菓子を、ぜひ一度ご賞味ください。
住所:奈良県奈良市西大寺南町1-19-101
お問い合わせ:0742-48-4545
萬御菓子誂處 樫舎の和菓子
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萬御菓子誂處 樫舎(かしや)の和菓子の特徴
素材そのものの味を最大限に活かした美味しい和菓子を販売しているほか、イートインで生菓子や抹茶いただける和菓子屋さん
作るこだわり
和菓子作りは素材と餡で決まります。こし餡なら腹がわれないように丹波小豆を炊き、手で皮と実をこし分け、何度も水でさらし、最良の砂糖を加えて炊き上げます。この間、まる一日。 さらに一晩ねかして、初めてお菓子が作れます。最高の素材の、一番いいところを引き出すため、このような作業に全身全霊を捧げています。
食べるこだわり
本当の食べ頃というのは難しいものです。お菓子としての食べ頃が、受け手が好まれる望ましい時とぴったり合うようにお届けする。そのときに初めてお菓子の中に本当の真心がこもるような気がします。
最高の素材から作り出す樫舎の和菓子。その中から一部のお菓子をご紹介いたします。
みよしの(葛焼き)
奈良吉野の極上の本葛と丹波小豆のこし餡で作った樫舎主人一押しの葛菓子。みよしの(蒸し上げ)
吉野の極上本葛蒸し羊羹。紅白や季節の色、ご希望に応じてご用意いたします。雪餅
備中白小豆(白)と丹波大納言(赤)のこし餡。紅白でお祝いに。黄白でお供えに。笹結び
外朗[ういろう]の中にこし餡を入れて国産天草の寒天をまぶし仕上げた涼菓。柏餅
丹波小豆を使った自家製のこし餡、近江の餅米、桜の葉だけで仕立てた朝生菓子。御萩
丹波大納言、備中白小豆、近江大豆の自家製黄粉などの素材の味をそのままに。蕨餅
素材は国産本蕨粉100%と砂糖のみ。他の澱粉は一切使わない本物のわらび餅。薯蕷饅頭
丹波産つくね芋と丹波小豆のこし餡を使った昔ながらの薯蕷饅頭。
住所:奈良県奈良市中院町22-3
お問い合わせ:0742-22-8899
奈良 而今の日本料理
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奈良 而今(にこん)の日本料理の特徴
日本料理と真摯に向き合ってきた若き匠が、その才能を開花させた希望と可能性に溢れた本格懐石
「而今」と書いて「にこん」と読む。禅の言葉で「今このとき」という意味だ。自らを未熟とし、日々の精進を忘れず、日本料理を極めんとする店主・清水氏の真摯な姿勢が、この店名からも窺えるだろう。「而今」が供する懐石料理は、若き匠らしい希望と可能性に溢れている。伝統という風格を纏いながら、それを崩そうとする気概や遊び心が過去と未来を結び、「今このとき」を生き生きと輝かせるのだ。今後が益々愉しみな名店である。
こだわり
土佐備長炭
土佐の備長炭を仕入れ、焼き物に使用しております。
炭焼きは日本料理においては欠かせない調理法です。素材の脂が炭に落ちることで燻製のような独特の香りが生じ、皮はパリッと身はふっくら焼くことができます。おくどさんで炊き上げるお米
お米は富雄の農家さんから仕入れ、二日おきに精米しております。このお米をおくどさんで香高く炊き上げます。魚
店主が毎朝市場に足を運び目利きした、その時期に1番美味しい天然の魚介類を厳選してをご提供いたします。お酒
篠峯 、大倉、春鹿など、奈良の地酒を多数取り揃えております。出典 奈良 而今公式サイト
住所:奈良県奈良市鍋屋町3
お問い合わせ:0742-31-4276
麺屋NOROMA
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麺屋NOROMAの特徴
ノロマこだわりの鶏白湯スープは鶏のうまみを最大限に引き出すために手間暇をおしまず作っています。鶏だけでこんなスープが作れるのかとおどろかれるほどコクがありそれでいてあっさりと仕上がっています。他店では真似のできない鶏のうまみを極限まで引き出したコラーゲンたっぷりスープですので肌にも嬉しく、老若男女どなたでも美味しく召し上がって頂けるようバランスを追求した極上の鶏白湯スープです。
鶏白湯スープはまず大量の国産鶏をていねいに下処理し、じっくりと8時間かけて煮込みます。厳選された素材の味を引き出すため片時も目を離さずスープへの情熱を注ぎ込みます。そこから2時間かけて丁寧にスープを漉し、短時間で急速冷却するため、より衛生的な状態で鶏のうまみを逃さず保存し、1日冷蔵庫でねかせて味をなじませます。こうやって手間暇をかけて作るからこそ鶏のうまみが濃縮された極上の鶏白湯スープが出来上がるのです。
麺は当店自家製の麺を使用しています。安全で安心な「食」の提供のため徹底した衛生管理と品質管理の元、ノロマの生麺が生まれます。香りと食感とのどごしにこだわり数ある中から厳選した数種類の小麦粉を独自の配合、製麺技術で鶏白湯に最も合う麺を日々追求しています。
当店のチャーシューはじっくりと低温で時間を掛けて煮込みます。これによって肉のたんぱく質が壊れず、うまみを閉じ込めたまま柔らかくジューシーに仕上げる事が出来ます。そこからさらに2日間、ノロマ特製の秘伝の薄味のタレに漬け込み、しっかりと味を染み込ませます。
住所:奈良県奈良市南京終町3-1531
お問い合わせ:0742-63-5338
奈良市について
奈良市の特徴
奈良市の歴史と遺産
奈良県奈良市は、710 年に「平城京」として都が開かれ、シルクロードの東の終着駅として天平文化の華を咲かせ、かつて日本の首都だった 70余年の間、政治経済の中心地としておおいに栄えました。最盛期には人口が 10万人を数えたこともあったといわれています。784年に都が長岡京に移った後も平城京をかざった諸大寺はそのまま残され、南都と呼ばれるようになり、社寺の都として生まれ変わりました。11世紀から 12世紀にかけて東大寺、興福寺、春日社(現春日大社)、元興寺などの社寺が勢力をもち、社寺の仕事に携わる人や農民が住むまちが境内の外にでき、それらは「郷」と呼ばれました。12世紀後半の戦火によって多くの社寺や郷が損壊を受けましたが、復興事業が活発に進められ、郷は以前にもまして充実し、今日の奈良の原型がかたちづくられました。15世紀後半には応仁の乱を避けて、京都の貴族や商人が奈良に疎開してきたこともあり、京都との関係はいっそう親密になりました。また、自治都市「堺」との交流も深まり、商業や手工業が発達しました。16世紀初めには東大寺、興福寺といった支配をこえて郷と郷との連合が進み、1567年の戦乱で東大寺大仏殿は再び焼失しましが、郷民によるまちづくりが発展し、1595年の文禄検地によって、近世の奈良町が成立しました。17世紀中頃から奈良晒、酒造、製墨などの産業がめざましく発展し、産業都市として繁栄しました。1692年には大仏が修造され、1709年には大仏殿が再建されました。この頃から奈良見物に訪れる人が多くなり、奈良はしだいに観光の町としての性格をもつようになりました。
明治維新には廃仏毀釈により多くの寺院が衰退し、廃藩置県ののち奈良県は一 時期、堺県や大阪府に合併されましが、1887年には奈良県庁が奈良町に復帰し、1898年2
月1日に人口29,986 人、面積23.44k㎡の規模で奈良市制が施行されました。この時期から都市基盤の整備も進み、鉄道については 1890年に奈良・王寺間がまず開通し、大阪(現JR 関西線)へは、1892年に通じました。1914年には奈良・大阪間(現近鉄奈良線)が開通しました。さらに周辺都市との間の交通網の整備も進み、観光客は増えていきました。第2次世界大戦で奈良は大きな戦禍をまぬがれ、貴重な自然や文化財、社寺が保存されました。1950年には「奈良国際文化観光都市建設法」が成立し、国際文化観光都市として整備を進めていくことになりました。この頃から近鉄学園前駅周辺において宅地開発が進められ、高度成長期には西北部丘陵一帯にも宅 地開発が広がり、住宅都市としての機能を併せもつようになりました。1988年に制定された「関西文化学術研究都市の建設に関する計画」においては「平城宮跡地区」と本市を含む「平城・相楽地区」が文化学術研究地区に指定されました。その後、市制100周年を迎えた1998年12月には、「古都奈良の文化財」として東大寺、興福寺、春日大社、春日山原始林、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡の8資産群が世界遺産に登録されました。2002年4月には、全国で29番目の中核市に移行し、保健福祉や都市計画などの様々な分野で多くの権限が委譲されました。さらに、2005年4月には、奈良市、旧月ヶ瀬村、旧都祁村が合併し新生「奈良市」が誕生しました。2006年3月には、けいはんな線が開通し、西北部地域と大阪・東大阪沿線エリアがより身近になり、人・モノ・情報・文化・産業の交流が今後一層活発になるものと期待されています。概況
奈良市は、奈良県の北部に位置し、北は京都府、東は山添村、宇陀市、三重県、南は桜井市、天理市、大和郡山市、西は生駒市と接しています。面積は 276.84k㎡で、奈良県の総面積のほぼ 7.5%を占め、東西 33.51km、南北22.22kmで東西に長い形をしています。
自然条件
気候
奈良市の気候は、奈良盆地・大和高原ともに内陸性気候を示し、夏は高温、冬は低温となり、年較差が大きいのが特徴です。奈良盆地(奈良地方気象台)では、年平均気温は 14℃前後で夏は県下でも最も気温が高くなります。一方、大和高原(針観測所)は、奈良盆地に比べて年平均気温で約3℃低くなっています。かつては、大和高原のこうした気候特性や都に近い立地条件を活かして、冬季にできた氷を保存する氷室があったことが知られています。また、昼と夜の温度差が大きいことも特徴であり、これがお茶の栽培に最適な条件となり、質の高い大和茶の栽培が営まれています。
地形と水系
奈良市の旧市街地東部には、南北方向に春日断層が走り、これを境にして東部と西部で地形条件が大きく異なります。東部は、標高 200~500mで緩やかな起伏をもつ大和高原が広がり、布目川、白砂川、名張川などが北に向かって流下し、木津川に合流しています。南端には、大和高原の最高峰である貝ケ平山(標高 822m)をはじめ、香酔山(標高 796m)、額井岳(標高 812.6m)などが笠置山地に連なっています。西部には、おおむね標高 100m以下の平地で構成される奈良盆地(大和平野)が広がり、佐保川、菰川、秋篠川、岩井川が南に向かって流下し、大和川に合流しています。市域の西端には標高 200m内外の矢田丘陵が南北に延び、その東方には標高 80~100m の西ノ京丘陵が位置し、その間を富雄川が南流しています。旧市街地の北部には、標高 90~110mの緩やかな起伏をもった平城山丘陵地が位置し、京都府との境界部を形成しています。丘陵地は、大阪層群といわれる未固結の堆積物からなり、改変が容易であることから、近年、多くの住宅開発が進められてきました。
出典 奈良市公式サイト
奈良市出身、ゆかりの有名人
歴史上の人物
元明天皇
聖武天皇
孝謙天皇
平城天皇
長屋王
行基
鑑真
道鏡
重源
叡尊
藤原不比等
山上憶良
橘諸兄
吉備真備
阿倍仲麻呂
藤原広嗣
藤原仲麻呂
大伴家持
藤原薬子
藤原仲成
在原業平
菅原道真
平重衡
観阿弥
世阿弥
松永久秀
柳生宗厳
柳生宗矩
木村友重
村井古道
川路聖謨
岡潔
奈良市出身の著名人
学術
福井謙一(京都大学名誉教授、1981年ノーベル化学賞受賞)
井上雅文(東京大学教授、木材利用システム研究会会長)
今井凌雪(筑波大学名誉教授)
岩井宏實(国立歴史民俗博物館教授、帝塚山大学名誉教授)
一海知義(神戸大学名誉教授、毎日出版文化賞受賞)
山内邦臣(京都大学名誉教授、奈良女子大学文学部部長)
稲田有史(整形外科医師)
麻生泰(美容外科医師・形成外科医師、タレント、YouTuber)
岡本健(近畿大学准教授、VTuber「ゾンビ先生」)
廣瀬克哉 (法政大学総長)
芸術
入江泰吉(写真家)
絹谷幸二(画家)
ウエダアツシ(映画監督)
岡本英樹(アニメ監督)
河瀨直美(映画監督)
高橋伴明(映画監督)
金春智子(脚本家)
斎藤慎太郎(将棋棋士)
富樫じゅん(漫画家)
芸能
明石家さんま(お笑いタレント)和歌山県生まれ
新珠三千代(女優)
有馬理絵(クラリネット奏者)
幾田愛子(歌手)
大山デブ子(女優)
海田庄吾(作曲家)
加藤雅也(俳優)
川井聖子(演歌歌手)
久保ユリカ(アーティスト・声優)
小堀裕之(お笑いタレント、2丁拳銃)
中将タカノリ(シンガーソングライター・音楽評論家)
津田麻莉奈(タレント)
十朱幸代(女優)東京都生まれ
堂本剛(歌手、KinKi Kids)
永田良輔(俳優)
中西保志(歌手)
中村優(タレント)
西田幸治(お笑いタレント、笑い飯)
新田一郎(歌手、ミュージシャン)
林香純(ミュージカル)
氷置晋(シンガーソングライター)
樋口宗孝(ミュージシャン、LOUDNESS)
福田ゆみ(女優・タレント)
堀あかり(タレント)
三戸なつめ(モデル)
芽夢ちさと(女優)
八嶋智人(俳優、タレント)
楊原京子(タレント)
スポーツ選手
伊藤舞(陸上競技選手)
歌藤達夫(元プロ野球選手・投手)
小野寺暖(プロ野球選手)
北岡幸浩(陸上競技選手・指導者)
北本久仁衛(サッカー選手)
德勝龍誠(元大相撲力士・千田川親方)高市郡高取町生まれ
内藤就行(サッカー選手)
中野克哉(サッカー選手)
名城信男(元プロボクサー、元WBA世界スーパーフライ級王者)
難波実夢(競泳選手、2020年東京オリンピック日本代表)
仁木希(元女子バレーボール選手)
林丈統(サッカー選手)
風香(元女子プロレスラー)
松代直樹(サッカー選手)
村田諒太(プロボクサー、前WBA世界ミドル級王者、ロンドンオリンピック・ボクシングミドル級金メダリスト、市民栄誉賞受賞)
矢部次郎(元サッカー選手)
脇阪薫一(レーシングドライバー)
脇阪寿一(レーシングドライバー)
名誉市民
1968年 岡潔(数学者)
1972年 橋本凝胤(薬師寺管主)
1975年 佐伯勇(事業家)
2001年 杉岡華邨(書家)
市民栄誉賞
2012年 村田諒太(ロンドンオリンピック・ボクシングミドル級金メダリスト)
2020年 德勝龍誠(大相撲令和2年1月場所幕内最高優勝)[18]
奈良市在住の有名人
乾龍介(アナウンサー)
山本浩之(アナウンサー)
愛内里菜(元歌手・実業家)
辰野勇(登山家・モンベル創業者)
秋月りす(漫画家)
奈良市ゆかりの人物
学術
喜多野徳俊(外科医師、郷土史家)
出典 ウィキペディア
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住所:奈良県奈良市二条大路南1丁目1−1
電話:0742-34-1111
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