目次
奈良県奈良市には美味しいものがたくさん!
中谷堂のよもぎ餅、ガトー・ド・ボワ A LA MAISONの洋菓子、萬御菓子誂處 樫舎の和菓子、奈良 而今の日本料理、麺屋NOROMAのラーメン、大和茶、古都華、奈良漬、赤膚焼、奈良筆、奈良墨、奈良一刀彫・奈良人形、螺鈿漆器、奈良団扇..
こちらでは、奈良県奈良市のおすすめグルメ、美味しいもの、人気の名店、レストラン、和食屋、洋食屋、道の駅、カフェ、名物、お土産、高級な手土産、特産品、名産品、通販でお取り寄せ出来る和菓子、洋菓子、スイーツ等をご紹介します。
奈良市のおすすめグルメ、美味しいもの、人気の名店、お土産、名物、特産品、名産品
ねえねえボンゾくん、奈良市のおすすめグルメ、美味しいもの、人気の名店、お土産、名物、特産品、名産品を教えてよ!
たくさんあるよ! 中谷堂のよもぎ餅、ガトー・ド・ボワ A LA MAISONの洋菓子、萬御菓子誂處 樫舎の和菓子、奈良 而今の日本料理、麺屋NOROMAのラーメン、大和茶、古都華、奈良漬、赤膚焼、奈良筆、奈良墨、奈良一刀彫・奈良人形、螺鈿漆器、奈良団扇なんかがおすすめだね。
中谷堂のよもぎ餅
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中谷堂のよもぎ餅の特徴
美味しいよもぎ餅で有名な和菓子屋さん
当店では美味しいお餅を提供するために高速で餅をついています。売れ行きを見ながらついているため、時刻を決めてつくことができずメールやお電話のお問い合わせでは時刻をお伝えできません。高速餅つきを見たい方は店頭で「次の餅つきは何時ごろ?」とお尋ねください。
餅つきには、つき手と返し手の呼吸を合わせることはもちろん、餅全体を臼の中でまんべんなくつく技術や水分量の調節など、高度な技術とスピードが要求されます。餅米の温度が低くなるとデンプンの成分が絡みにくくなり、切れやすく伸びにくい餅になってしまいます。
「速い餅つき」は、やわらかくてよく伸びて、でもコシのある餅に仕上がります。これは、店主の故郷である吉野郡上北山村に古くから伝わる餅つきの方法で、湯気が上がるほどの熱い状態の餅米を、ものすごい速さでつくのが特徴です。また、上北山村は山奥にあり、餅つきが行われる冬はとても寒いので、餅が冷めてしまわないようにするための先人の知恵ではないかと考えられています。
素材は全て、国産のものを使用しています。
『佐賀県産』のひよくもち米、『北海道十勝産』の中でも上質な小豆、国産きな粉、『愛媛県宇和島産』のよもぎの新芽を用いています。作り方と材料にとことんこだわっています。
また、よもぎ餅に入れる餡は粒餡を使用。小豆の風味を残しながら、甘さ控えめに仕上げました。出典 中谷堂公式サイト
住所:奈良県奈良市橋本町29
お問い合わせ:0742-23-0141
ガトー・ド・ボワ A LA MAISONの洋菓子
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ガトー・ド・ボワ A LA MAISONの洋菓子の特徴
人気の洋菓子屋さん
まるで宝石のように美しく繊細なお菓子が並ぶショーケース。その宝石たちを眺める人の顔には、思わず笑みが浮かぶ。奈良の西大寺に本店を構える『GATEAU DES BOIS(ガトー・ド・ボワ)』。「お菓子作りを通して、みんなを笑顔にしたい。」やさしい口調でそう語るのは、オーナーシェフの林 雅彦氏。洋菓子の本場フランスで、2年に1度開催されるお菓子の世界大会、『La Coupe du Monde de la Patisserie(クープ デュ モンド パティスリー)』。 1991年、林シェフはこの大会で史上初、フランス人を負かして“世界チャンピオン”の座を獲得した日本人。その後も日々努力と研究を重ね、常に新しいお菓子を生み出し続ける。「自分の目の届く範囲で」にこだわり、お店は奈良の西大寺にある本店とラボの2店のみ。世界トップレベルのお菓子を、ぜひ一度ご賞味ください。
住所:奈良県奈良市西大寺南町1-19-101
お問い合わせ:0742-48-4545
萬御菓子誂處 樫舎の和菓子
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萬御菓子誂處 樫舎(かしや)の和菓子の特徴
素材そのものの味を最大限に活かした美味しい和菓子を販売しているほか、イートインで生菓子や抹茶いただける和菓子屋さん
作るこだわり
和菓子作りは素材と餡で決まります。こし餡なら腹がわれないように丹波小豆を炊き、手で皮と実をこし分け、何度も水でさらし、最良の砂糖を加えて炊き上げます。この間、まる一日。 さらに一晩ねかして、初めてお菓子が作れます。最高の素材の、一番いいところを引き出すため、このような作業に全身全霊を捧げています。
食べるこだわり
本当の食べ頃というのは難しいものです。お菓子としての食べ頃が、受け手が好まれる望ましい時とぴったり合うようにお届けする。そのときに初めてお菓子の中に本当の真心がこもるような気がします。
最高の素材から作り出す樫舎の和菓子。その中から一部のお菓子をご紹介いたします。
みよしの(葛焼き)
奈良吉野の極上の本葛と丹波小豆のこし餡で作った樫舎主人一押しの葛菓子。みよしの(蒸し上げ)
吉野の極上本葛蒸し羊羹。紅白や季節の色、ご希望に応じてご用意いたします。雪餅
備中白小豆(白)と丹波大納言(赤)のこし餡。紅白でお祝いに。黄白でお供えに。笹結び
外朗[ういろう]の中にこし餡を入れて国産天草の寒天をまぶし仕上げた涼菓。柏餅
丹波小豆を使った自家製のこし餡、近江の餅米、桜の葉だけで仕立てた朝生菓子。御萩
丹波大納言、備中白小豆、近江大豆の自家製黄粉などの素材の味をそのままに。蕨餅
素材は国産本蕨粉100%と砂糖のみ。他の澱粉は一切使わない本物のわらび餅。薯蕷饅頭
丹波産つくね芋と丹波小豆のこし餡を使った昔ながらの薯蕷饅頭。
住所:奈良県奈良市中院町22-3
お問い合わせ:0742-22-8899
奈良 而今の日本料理
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奈良 而今(にこん)の日本料理の特徴
日本料理と真摯に向き合ってきた若き匠が、その才能を開花させた希望と可能性に溢れた本格懐石
「而今」と書いて「にこん」と読む。禅の言葉で「今このとき」という意味だ。自らを未熟とし、日々の精進を忘れず、日本料理を極めんとする店主・清水氏の真摯な姿勢が、この店名からも窺えるだろう。「而今」が供する懐石料理は、若き匠らしい希望と可能性に溢れている。伝統という風格を纏いながら、それを崩そうとする気概や遊び心が過去と未来を結び、「今このとき」を生き生きと輝かせるのだ。今後が益々愉しみな名店である。
こだわり
土佐備長炭
土佐の備長炭を仕入れ、焼き物に使用しております。
炭焼きは日本料理においては欠かせない調理法です。素材の脂が炭に落ちることで燻製のような独特の香りが生じ、皮はパリッと身はふっくら焼くことができます。おくどさんで炊き上げるお米
お米は富雄の農家さんから仕入れ、二日おきに精米しております。このお米をおくどさんで香高く炊き上げます。魚
店主が毎朝市場に足を運び目利きした、その時期に1番美味しい天然の魚介類を厳選してをご提供いたします。お酒
篠峯 、大倉、春鹿など、奈良の地酒を多数取り揃えております。出典 奈良 而今公式サイト
住所:奈良県奈良市鍋屋町3
お問い合わせ:0742-31-4276
麺屋NOROMA
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麺屋NOROMAの特徴
ノロマこだわりの鶏白湯スープは鶏のうまみを最大限に引き出すために手間暇をおしまず作っています。鶏だけでこんなスープが作れるのかとおどろかれるほどコクがありそれでいてあっさりと仕上がっています。他店では真似のできない鶏のうまみを極限まで引き出したコラーゲンたっぷりスープですので肌にも嬉しく、老若男女どなたでも美味しく召し上がって頂けるようバランスを追求した極上の鶏白湯スープです。
鶏白湯スープはまず大量の国産鶏をていねいに下処理し、じっくりと8時間かけて煮込みます。厳選された素材の味を引き出すため片時も目を離さずスープへの情熱を注ぎ込みます。そこから2時間かけて丁寧にスープを漉し、短時間で急速冷却するため、より衛生的な状態で鶏のうまみを逃さず保存し、1日冷蔵庫でねかせて味をなじませます。こうやって手間暇をかけて作るからこそ鶏のうまみが濃縮された極上の鶏白湯スープが出来上がるのです。
麺は当店自家製の麺を使用しています。安全で安心な「食」の提供のため徹底した衛生管理と品質管理の元、ノロマの生麺が生まれます。香りと食感とのどごしにこだわり数ある中から厳選した数種類の小麦粉を独自の配合、製麺技術で鶏白湯に最も合う麺を日々追求しています。
当店のチャーシューはじっくりと低温で時間を掛けて煮込みます。これによって肉のたんぱく質が壊れず、うまみを閉じ込めたまま柔らかくジューシーに仕上げる事が出来ます。そこからさらに2日間、ノロマ特製の秘伝の薄味のタレに漬け込み、しっかりと味を染み込ませます。
住所:奈良県奈良市南京終町3-1531
お問い合わせ:0742-63-5338
大和茶
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大和茶の特徴
大同元年(806年)に弘法大師が唐より茶の種子を持ち帰り、宇陀に播種して製法を伝えたのが大和茶の起こり。
朝晩の温度差が激しい大和高原で栽培される大和茶。
きびしい自然条件で栽培される大和茶は深みのある味わいで、二煎・三煎まで美味しく、そして、より多くのカテキンが含まれています。
他府県産銘柄茶より少し長めに急須のお湯に浸して飲むのが大和茶の美味しさを感じていただける秘訣です。
渋みの中に旨味を味わっていただき、「あと味すっきり」
古来から万病に効く薬として重宝され、今では、日本緑茶の持つ成分(カテキン・テアニン・ビタミンC、A、E・カフェイン等)効用が学術的に解明され、嗜好品を越えた健康飲料として生活に溶け込んでいます。歴史的背景や地理的背景
大和茶は大同元年(806年)に弘法大師が中国より茶の種を持ち帰り、奈良の地に植えさせたのがはじめとつたえられています。
大和茶は主に奈良県東北部の大和高原一帯の山間地で生産されています。この地域は、標高200~500mで平均気温13~15℃、降雨量 1500mmの山間冷涼地で、日照時間も短く、昼夜の温度差も大きく、良質茶生産に適した条件がそろっています。奈良「大和茶」は日本のハイランドティー
日本人の心に潤いと安らぎを与えてくれ、ふっと口にするだけで、気持ちを落ち着かせてくれる不思議な飲み物お茶(日本緑茶)。お茶の魅力は、香りや味だけにとどまらず、古くは栄西禅師が「茶は養生の仙薬、延命の妙薬なり」と記したように、古来から万病に効く薬として重宝され、今では、日本緑茶の持つ成分(カテキン・テアニン・ビタミンC、A、E・カフェイン等)効用が学術的に解明され、嗜好品を越えた健康飲料として生活に溶け込み現在、世界的に注目されています。
わが国ではじめてお茶がお供えされたのは、天平元年(729年)のこと、聖武天皇の時代の記録に、「宮中に僧を召して茶を賜った」(公事根源より)と記されているのが最初といわれています。また、茶樹の栽培歴史においても、大同元年(806年)に弘法大師が唐より茶の種子を持ち帰り、弟子の堅恵大徳が宇陀市榛原赤埴の佛隆寺に播種され、その製法を伝えられたのが、「大和茶」のはじめといわれております。以来、「ひむがしの野にかぎろひの立つみえて」の歌で知られる、大和高原(奈良市東部山間、天理市、山添村、宇陀市)、この地域は標高300m以上、朝晩の温度差が激しい高冷地です。平均気温や日照時間などがお茶が育つぎりぎりの条件なので、お茶はゆっくりと育っていき、その分香り高い良質な茶が出来ます。又、吉野川流域の大淀町、東吉野村に於いても、恵まれた自然条件を生かして茶栽培されており、奈良県の茶栽培は、かぶせ茶やてん茶、番茶が生産され、全国6~7番目の産地形成が成されています。
紅茶でダージリンといえば、マスカットに似た香りがするともいわれる高級な茶葉、インドの高冷地で栽培される「ハイランドティー」です。言ってみれば、奈良「大和茶」は日本の「ハイランドティー」です。きびしい自然条件で栽培される大和茶は深みのある味わいを感じていただき、二煎・三煎まで美味しく、そして、より多くのカテキンをお飲みいただけます。他府県産銘柄茶より少し長めに急須のお湯に浸してお飲みいただくことが大和茶の美味しさをお口いっぱい感じていただける秘訣です。渋みの中に旨味を味わっていただき、「あと味すっきり」、お茶なら「大和茶」を是非ご愛飲ください。
通販でお取り寄せ出来る大和茶
古都華
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古都華の特徴
古都・奈良を飾る新しい「華」になってほしい、そんな想いから名づけられたいちごが、 2011年に品種登録された「古都華」です。
古都華は、まだまだ新人の名産品。
「このおいしさを知ってもらいたい!」と、生産者さんやシェフたちが、日々、情熱を燃やしています。
つやつやと赤く輝くひと粒を口に運べば、 その味の甘さや濃さ、みずみずしい果汁、甘酸っぱい香りに、すぐ次のひと粒を求めてしまう…
古都華は、食べると、驚きとともに、笑顔と口いっぱいの幸せをくれる、実は魔法のフルーツなのです。奈良オリジナルの希少品種 古都華の誕生秘話
品種登録をしたのは2011年ですが、新しい奈良のブランドいちごをつくるため、初めて古都華の基となる種をまいたのは、1989年のこと。
毎年約3,000株の新品種候補を育て、いいものだけ残すことを繰り返すこと数年、古都華が残り続けたのは、シンプルに「おいしい」からでした。
古都華の歴史は、まだ始まったばかりです。いずれ、「いちごと言えば古都華」となる未来もあるかもしれません。味わいも粒の美しさも、納得の自信作
甘さと酸味の絶妙なバランス
平均糖度12~13度と、一般的ないちごより甘い古都華。やさしい酸味もあり、より甘さが際立っています。
さらに、その味わいをさらにパワーアップさせているのが、味の濃さです。どこを食べても水っぽさのない、濃厚果汁が楽しめます。
つやつやに光輝く、濃赤の宝石果皮は濃いルビー色。全体的にツヤがあり、宝石のように美しい表情を見せてくれます。実は大粒で固く、しっかりした歯ごたえが特徴です。
一番おいしいのは、やはり摘みたて。ぜひ一度は農家さんの直売所を訪れて、どこよりもフレッシュな古都華を味わってみてください。出典 奈良市公式サイト
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奈良漬
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奈良漬の特徴
奈良漬起源(歴史)
奈良漬の歴史は古く、奈良漬の最古の記録は、奈良時代にまでさかのぼります。
昭和63年奈良市二条大路のデパート建設現場で発掘調査された時に、「長屋王邸跡」から出土した木簡に『進物加須津毛瓜(たてまつりものかすづけうり)加須津韓奈須比(かすづけかんなすび)』とありました。当時はドブロクの上澄みを酒として飲み、 下に溜まったドロドロした中に塩漬野菜を漬けたものが保存食、香の物として珍重されていたようです。
「奈良漬け」は元々は瓜の粕漬で、その言葉は1492年(明応元年)「山科家礼記」に登場します。
江戸時代に入り、奈良・中筋町に住んでいた漢方医糸屋宗仙(慶長年間)が「シロウリ」の粕漬けを「奈良漬」という名で初めて売り出し、徳川家康に献上したといわれています。奈良漬は粕漬から
歴史を紐解くと、奈良漬の最古の記録は、昭和63年に長屋王(684年~729年)の屋敷跡発掘調査の際に多くの出土品と共に「進物加須津毛瓜(たてまつりものかすづけけうり)」等の記載がある木簡が発見されました。
平安時代中期に入ると、延長5年(927年)に編纂された延喜式の中に多くのことが記載され、その中の1つに「粕漬」という名で、瓜、冬瓜・ナスが記載されていたようです。
当時の酒といえば現在の透明度のあるお酒とは違い、白く濁ったどぶろくを指していました。粕とは搾り粕ではなく、どぶろくの底に溜まるドロッとした沈殿物の染(おり)に野菜を漬けこんだものを当時の上流階級の保存食・香の物として珍重されていたようで、高級食として扱われていたようです。奈良漬と呼ばれるように
「ナラツケ」、その言葉は1492年(明応元年)に「山科家礼記」に最初に登場します。当時から奈良の土産として人気があったようです。その後、1590年(天正18年)の「北野社家日記」や1597年(慶長2年)の「神屋宗湛献立日記」にも記載があり、たびたび登場して広く周知されていきます。
幕府へ献上
時は江戸時代、奈良中筋町に住んでいた医者であった糸屋宗仙(1596年~1615年)はシロウリの粕漬を「奈良漬」の名前で商品として売り出したところ、とてもおいしいと評判になりました。大坂夏の陣の時に徳川家康に献上したところ大変気に入られ、やがては江戸に呼び寄せられ、奈良漬作りの幕府御用商人にさせたと伝えられています。
清酒のはじまりと奈良漬
奈良県は歴史が古く、「はじまり」はたくさんあります。日本清酒の「はじまり」は、奈良市東南に位置する「菩提山 正暦寺」にありました。正暦3年(992年)創建され、室町時代には当時最先端である酒造技術を確立するなど近代醸造法の基礎となりました。
酒造技術が向上するにつれて、酒を絞った粕で塩漬けした後のお野菜を漬ける現在の奈良漬製法の基礎が確立されました。土用の丑の日と奈良漬
暑い夏を乗り切ろうと、「土用の丑の日」には鰻を食べる文化が日本にはあります。諸説ありますが、平賀源内が最初に始めたといわれています。鰻と奈良漬の組み合わせがベストマッチだと、昔から鰻の添えものとされ、いくつかその理由があります。
1.奈良漬酒精分が鰻の脂分を分解し、口直しに良い
2.江戸時代から、奈良漬の瓜は「うなぎ」と共に「う」がつくもので、縁起が良く食せば健康になると言われています。
3.奈良漬の成分であるメラノイジンが、うなぎに含まれるビタミン・ミネラルの吸収を助け、スタミナ強化、ストレス解消、血流改善、便秘解消に良いと言われています。また、活性酵素によって酸化を抑える「抗酸化作用」があり、体の中を錆びさせないと言われています。
メラノイジン
奈良漬の野菜は黒く、酒粕はべっ甲色でとても鮮やかです。お酒を造る際に絞ってできる酒粕は真っ白ですが、アミノ酸と糖質が結合してできた褐色の物質「メラノイジン」が、長い時の間に発酵・熟成の工程を繰り返し、宝石のような美しい酒粕になります。
出典 総本舗 増田屋公式サイト
奈良漬けの作り方(漬け方) – How to make Narazuke (vegetables pickled in sake lees)
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日本酒
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奈良市の日本酒の特徴
奈良時代や平安時代初期、お酒は朝廷内で造られていましたが、次第にお寺で造られるようになりました。なかでも、興福寺大乗院の別院だった正暦寺は、大量の僧坊酒(僧侶が醸造するお酒)を造る大寺院でした。かつて日本酒は白く濁った濁酒でしたが、室町時代、正暦寺で「菩提酛(ぼだいもと)造り」という革新的な酒造りが確立され、現代の私たちが目にする、あの透き通った「清酒」の原点が誕生しました。
その後「菩提酛造り」はいったん途絶え、幻の醸造法となりますが、1999年に有志らが集い、500年ぶりに復活。現在は県内8社の酒蔵が集まり、毎年1月に境内で菩提酛という酒母を造り、各蔵に持ち帰って醸造しています。できあがったお酒は正暦寺で購入することができます。日本最古の神社の一つ・大神神社(おおみわじんじゃ)は、酒造りの神様として信仰を集めています。『日本書紀』によると、崇神(すじん)天皇の御代、流行していた疫病をおさめるため、神様に供えるためのお酒造りを高橋活日命(たかはしいくひのみこと)に命じます。活日は一夜にして美酒を醸し神様に供えると疫病がおさまりました。活日は「大物主大神(おおものぬしのおおかみ)のお力でこのような美酒を醸すことができたのです」と歌に詠み、以来ご祭神の大物主大神は酒造りの神様として敬われるようになりました。
活日は杜氏の祖神として境内の活日神社に祀られています。かつては全国の大きな神社で酒造りが行われていましたが、現在唯一、神社で醸造施設が残っているのが春日大社です。御本殿の回廊の西側にある酒殿(さかどの)は、貞観元年(859年)に創建された現存する最古の酒蔵。酒弥豆男神(さかみずおのかみ)と酒弥豆売神(さかみずめのかみ)をご祭神としてお祀りしています。『続日本記』の天平勝宝2年(750年)に「春日酒殿」の記述があることから、創建は更にさかのぼる可能性が高いとみられます。内部には大甕(おおがめ)が置かれ、現在も、毎年3月13日に行われる例祭「春日祭」にお供えする濁酒を醸造しています。
出典 いざいざ奈良
赤膚焼
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赤膚焼の特徴
現在の赤膚町を中心とする西の京丘陵一帯は、古くからの窯業地で、土器、火鉢などの制作が盛んに行われ、貴族や諸社寺の需要に応えていたと思われます。
後に茶の湯がおこると土風炉が作られるようになり、桃山時代の天正慶長の頃には、大和郡山城主大和大納言秀長が尾張常滑から陶工与九郎を招いて風炉をはじめ茶陶を作らせたとされています。
江戸時代に入ると、元和年間(1615~1624)には遠州流の開祖小堀遠州が好みの陶器を作らせ茶道具として世にしらせたとも、また正保年間(1644~1648)には、京都より野々村仁清が来て京風の茶器の製法を指導したとも伝えられています。
その後江戸中期には、大和郡山城主柳沢堯山公が京都清水より陶工伊之助、治兵衛の二人を招き、窯を復興し、郡山藩御用窯として保護奨励することになります。楽焼茶碗を堯山公に献じて木兎の号を得た郡山藩の御殿医青木木兎や大和郡山市内で小間物商を営みながら楽焼を始め、多くの名作を今に残す奥田木白らによって赤膚焼の声価を全国に高めました。
現在は、この伝統の上に新境地を求める作家もあり、奈良固有の焼物として愛好されています。出典 奈良市公式サイト
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奈良筆
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奈良筆の特徴
奈良筆は、奈良県奈良市大和郡山市周辺で作られる筆。古くから継承される伝統を高く評価され、昭和52年10月に伝統的工芸品としての指定を受けた。材料である獣毛の選択から仕上げまでが全て職人の手作業で行われる。
雄大で微細な表現は書・絵に関わらず長きに渡り多くの人を魅了してきた。
一般的な筆作りは機械を導入して分業することが多いが、奈良筆では一切機械を使わず、材料の仕入れから仕上げまでの工程全てを筆匠一人で行う。筆匠の卓越した技術や目利きによって作られる奈良筆は、通常の筆よりも穂先の仕上がりが鋭く、美しい形に仕上がる。
奈良筆の最大の特徴は「練り混ぜ法」と呼ばれる技術を用いて筆が作られることである。「練り混ぜ法」とは、奈良筆で用いられる十数種類の獣毛を混ぜ合わせ、筆の使用目的に合った筆を作り上げる技法である。使われる獣毛の質はその採取時期や部位によって違いが生じてくるため、筆匠には獣毛を一本一本選別する洗練された技術が求められる。
奈良筆の材料である、原毛を練り混ぜる際にはそれぞれの特徴が引き立つように、筆匠は絶妙なバランスで練り混ぜる。この練り混ぜの工程が筆作りで最も難しいとされており、一流の筆匠でも技術を習得するのには相当な年月を要する。
このように原毛一本一本から作り上げられる奈良筆の製法では個人の希望に合った筆を作りやすく、オーダーメイドの注文も多い。今でも書道を始め、水彩画や水墨画といった芸術分野において未だに根強い人気を集め、愛用されている。
筆匠の魂を吹き込むようにして作り上げられる奈良筆は、筆自体が芸術作品と言われるほどの逸品である。
「奈良筆」の歴史
国内では江戸筆、熊野筆など様々な筆の種類があるが、それぞれのルーツを辿っていくと奈良筆に行き着くと言われるほど、その歴史は長い。
日本の筆の歴史が始まった飛鳥時代
飛鳥時代、中国文化が日本に伝来し始めたと同時に中国製の筆が国内へ多く輸入されるようになる。また奈良時代に入ると、日本は仏教文化の影響を強く受けるようになり、写経が広まったことで筆の需要も高まった。
正倉院にはこの時代の筆が数多く確認されており、輸入品だけでなく、国内でも筆が製造されていたのではと言われている。
平安時代〜奈良筆の誕生
9世紀頃、空海が遣唐使として唐から帰国した際に、中国の文化や仏法、その他多くの美術品を持ち帰ってきた。その中の一つが筆の作り方であり、空海の監督の元、中国の最新の毛筆製法を教わった坂名井清川 (さかないのきよかわ) が大和国で筆を作り始め、完成した筆を嵯峨天皇に献上したことが記録に残っている。この毛筆製法こそ奈良筆の起源である。
鎌倉・室町時代〜武士への普及
この時代から武家と僧侶が台頭し、書道が貴族だけでなく武士や僧侶のたしなみとしても浸透し始める。さらに、中国から来日した禅僧によって禅様 (墨跡) と呼ばれる書風が広まり、芸術分野においても奈良筆の需要が高まっていく。また室町時代には「御用筆師」と言われる大名に筆をおろす職人も表れ、奈良筆の質や生成技術はより一段と向上していくこととなった。
江戸時代〜庶民に親しまれた奈良筆
この時代、多くの筆職人が奈良町 (現在のならまち・きたまちエリア) に居を構え、全国に多くの奈良筆を送り出していた。特に書家の間では奈良筆はなくてはならない存在となり、高い評価を受けていた。一方で生活の苦しい下級武士の間で筆作りが流行し、新しい製法での筆作りも表れ始める。熊野筆や江戸筆はこの時代から誕生したと言われる。
教育、芸術の分野で支持を集める明治・大正時代教育の文化が発展を遂げ、読み書きに使われる筆は必要不可欠な道具となる。この時期から一般庶民の間でも筆は文房具として広く普及し使われるようになった。書道家や芸術家の間ではより品質の高い筆が求められるようになり、中でも奈良筆は高級品として重宝され、高い支持を集めていた。
昭和時代〜伝統的工芸品として認定
昭和52年の10月に、奈良筆は伝統的工芸品産業の振興に関する法律により通産大臣の認定を受け、伝統的工芸品に指定される。新潟県、広島県、愛知県、宮城県でも筆の生産が行われているが、今日でも奈良筆は高級品として多くの人々から愛用されている。
現在の奈良筆
奈良筆の制作には鹿や羊、リスやムササビ、タヌキなど様々な獣毛を使う。昔に比べて獣毛の入手が難しくなり、最近では化学繊維で作られた筆も流通するようになっている。しかし、今なお奈良筆は選び抜かれた獣毛と、長年受け継がれてきた職人の手作業によって、高級筆という不動の地位で芸術家、書家の心を掴み、高い評価を受けている。
また、近年では奈良筆の製法を活かした新しい文房具も誕生している。約300年間、奈良筆の伝統を継承している筆専門メーカーの「あかしや」では、奈良筆と全く同じ技術や素材で作られている筆ペン「彩」を発売している。
出典 中川政七商店公式サイト
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奈良墨
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奈良墨の特徴
奈良の墨は古く天平時代から1300年の歴史をもつ奈良を代表する伝統産業であり、全国的にも認知されています。
各地で開催される伝統工芸展に参加出品し、墨のもつ工芸品としての価値をアピールしています。
また、書道の発展と共に墨に対する多様なニーズが生れ、これらのニーズに応えるため、品質の向上に努め、新製品の開発に力を注いでいます。現在10社の組合員企業が、年間70万丁の墨の生産を行ない、全国の書道家、水墨画家、書写書道教育、書道愛好家に対し、その需要の95%を供給しています。
墨は炭素末(たんそまつ)(煤=すす)と膠(にかわ)と少しの香料をねり合せてできています。すすは、黒々とした墨の色を示し、膠は紙や木に書かれたすすを定着させる働きをし、香料は膠のにおいを消し、清い香りをもって書く人の気持ちをやわらげる役割をはたします。墨は気温が高く湿気の多い夏場は膠がくさりやすく、墨づくりには適しません。そのため墨づくりは毎年10月中旬から翌年4月下旬までの寒期に行ないます。こうしてできる墨の起源は、中国、殷の時代(紀元前1,500年頃、約3500年前)にさかのぼります。そして漢の時代に入り、後漢(25~220)の時、105年に蔡倫(さいりん)が紙を発明し、これに伴ない墨の需要が急速に高まり、現在ある墨の原形となるものが生れ、唐の時代(618~907)には今日の墨の形が整えられました。この頃には中国、朝鮮、日本の交流は盛んになり、当時の墨が日本に伝来し、正倉院に今もなお宝蔵されています。中国四千年の歴史や文化、飛鳥(あすか)時代からの日本の歴史や文化は、墨によって今に伝えられました。千年以上をへた書跡に残る鮮やかな墨の色を見る時、墨のいのちの長さに感嘆せざるをえません。墨は筆記具としての使命をはたしつつ、書画芸術の担い手としてそ の墨色が大変重要になってまいります。「墨は黒いだけでなく、その黒の中に七色を味わうというように、まず紫光色がよく、黒色はその次であり、青光色は更にその次となる。しかもそれはうわついた光ではなく底光するような色で、硯ですってみて清い香りがし、音のしないものがよい」と言われています。
我国は飛鳥時代には中国(隋・唐)や朝鮮半島の国々(百済・髙句麗・新羅)と盛んに交流し、それらの国々の政治や文化を次々と取り入れて行きました。日本書記巻二十二、推古天皇の条に、「十八年春三月、髙麗(こま)の王、僧曇徴(どんちょう)と法定(ほうじょう)とを貢上(たてまつ)りき。曇徴、五経を知り、またよく彩色及び紙墨を作り・・・」とあります。これが、我国に墨がもたらされたことを告げる最初の文献です。推古天皇十八年は西暦610年に当たります。大化改新で制定された「大宝律令」には、中央官庁八省のうちに中務省があり、製墨を司どる省として造墨手が置かれました。奈良時代に入ると仏教が大いに興り、写経生たちは膨大な量の写経を行ない、中でも墨は貴重品扱いされていました。正倉院には、現在する最古の墨(墨14丁、白墨2丁)が保存されています。「華烟飛龍鳳皇極貞家墨」「新羅揚家上墨」「新羅武家上墨」が特に有名です。平城京では、図書寮(ずしょりょう)で造墨手4人で400丁余りの墨がつくられていました。 平安時代に入りますと、仮名文字が発明され、文字が一般化されて墨の需要が一段と高まりました。この時代に制定された「延喜式」によりますと、墨は奈良だけでなく、丹波国、播磨国、大宰府でもつくられたことが記され、また平安後期には、紀州藤白(代)墨、播磨淡路墨が有名ですが、墨の原料の「すす=煤」を松の木やヤニを燃して採取することから、松の豊富な山をもつこれらの地域で「すす」を採り、墨をつくったのでした。
平安時代には、我国の各地でつくられていた墨も時代の変遷と共に次第に途絶えて行きます。その中で、奈良の墨は、寺社を中心としてつくり続けられました。
奈良の墨の歴史をひもとくに、興福寺との関係が大変重要です。それは、奈良時代に藤原氏の氏寺として興福寺が建立せられ、藤原氏の隆盛と共に興福寺の財力が豊かになり、灯明に使う胡麻油、筆記や写経、春日版と言われる木版摺りの経典に使う墨の生産などを一手にしていました。特に墨は、興福寺ニ諦坊(にたいぼう)に造墨手を置き、かなりの量がつくられていたと思われます。貝原好古が『和漢事始』(1697)で、「中世南都興福寺のニ諦坊、持仏堂の灯(ともし)の烟(けむり)の屋宇(やね)にくすぼり滞(たま)るものを取りて、膠(にかわ)に和して墨を作る。これ南都油煙墨の始まりといへり」と記しています。また、貝原益軒は「扶桑紀勝」(1745)で、「奈良の墨は明徳・応永のころ興福寺ニ諦坊で製するところが始まりである」とも記しています。明徳・応永は、1390~1428年で、室町時代にあたります。当時、中国は宋の時代にあり、日宋貿易が盛んに行なわれ、中国ではすでに原料である「すす=煤」を植物油を燃やして採っており、この墨を油煙墨(ゆえんぼく)と言いますが、唐墨(からすみ)と称して我国では貴族達が珍重しておりました。我国の墨と言えば、まだ松を燃やして「すす」を採り、これを松煙墨と言いますが、墨をつくるという古来ながらの製法で、墨の色は圧倒的に油煙墨が黒く、品質的にも松煙墨にくらべて格段の差がありました。その油煙墨が興福寺ニ諦坊ではじめてつくられました。さらに興福寺は「すす」を採る原料の胡麻油をも一手にしていたので、多量の油煙墨をつくるのは容易なことでした。南都(奈良)の墨=油煙墨として、これまで作られていた松煙墨とは、墨の色、艶、磨(す)り心地など品質的に圧倒的な優位に立ち、全国に知られるようになりました。興福寺ニ諦坊でつくられていた墨の墨型(銅製)が今もなお残されています。こうして有名になった奈良の墨は、南都油煙と呼ばれ、墨の代名詞にもなりました。
奈良の墨がさらに有名になってゆくのは、応仁の乱をへて戦国時代に入り、織田信長、豊臣秀吉が天下を統一した頃からと思われます。それまでの墨づくりは、寺社の指図によって墨工が原料を寺社からもらい受け、墨をつくって納めるといった職人仕事でした。信長の天下統一と共に奈良の町も次第に寺社の力が弱まり、さらに信長・秀吉の商工業振興策によって、墨工が墨屋として店舗を構え、商売をするようになりました。その代表は、天正年間に創業したと言われる松井道珍で、「古梅園」として400年を経た今もなお健在です。奈良の墨が南都油煙としてさらに発展するのは、原料の「すす=油煙」の採取が、秀吉の時代、日明(にちみん)貿易で伝来した菜種油によって従来の胡麻油よりもさらに容易となったからでした。油煙が大量に生産されるようになるとさらに多量の墨がつくられ、南都油煙は奈良の名産品として大いにもてはやされるようになり、墨づくりは寺院から町方の仕事に大きく移り進んで行きました。
江戸時代に入りますと、奈良は幕府の直轄地となり、奈良奉行が置かれ、その指導のもとで奈良町が形成され、商工業は猿沢池を中心にその南・北に拡って行きました。
寛文10(1670)年には、すでに30軒に近い墨屋が奈良町に点在していた記録が残されています。江戸時代の中期に至ると、宝永7(1710)年には40軒を数えるほどに隆盛します。この頃には墨は筆と共に文房具として需要が高まり、また奈良見物のみやげ品として求められました。このように隆盛の一途であった南都油煙墨も、寛保年間(1741~1744)になって衰えてまいります。平安時代盛んにつくられていた紀州藤白墨を、紀伊徳川家が再興を図り、良質な松煙墨を世に送り出し、紀伊徳川家出身の吉宗が幕府御用墨として援助したために、市場でも好評をもって迎えられました。これにより独占的であった奈良の墨も窮地に立たされますが、油煙墨だけをつくるのではなく、藤白墨にまけぬ松煙墨をも作り、なんとかNO.1の地位を保ち続けました。この頃には墨屋は18軒に減少しています。
幕末に迫り、慶長18年、奈良奉行として赴任して来た川路聖謨(かわじとしあきら)は衰退の一方をたどる奈良の産業の復興に力を尽くしました。
墨づくりについても業者援助を惜しみませんでした。
しかしながら安政の大地震、黒船の来航等幕末の内憂外患によって、奈良の産業は潰滅的になり、元年には11軒の墨屋しか残らぬ状況で明治維新を迎えました。明治元年の墨屋は、
北室町 大森佐渡
三条町 墨屋 中林嘉助
椿井町 古梅園
南市町 墨甚
墨屋茂助
中筋町 墨七
今小路町 墨利
椿井町 大森孝七
南新町 墨屋久平
下三条町 墨屋 大森兵助
内侍原町 墨喜の11軒です。
出典 奈良製墨組合公式サイト
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奈良一刀彫・奈良人形
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奈良一刀彫・奈良人形の特徴
一刀彫人形は奈良の地で、親から子へ代々受け継がれてきました。
その起源は約890年前、平安時代の終わりごろ春日大社の祭礼で飾られたものだといわれています。それらは神事に使われるものなので、なるべく人の手が触れないように、簡素なものであり、またその当時から一刀彫の大きな特長である彩色は施されていました。江戸時代に入ると、それまで祭礼にのみ使われていた一刀彫が、節句人形や観賞用人形などに使われるようになり、美術品として一般の人々にも愛好されるものになりました。
そして、名匠と名高い森川杜園(1820~1894)によって、一刀彫の名は一気に日本中に広まりました。
杜園は、それまで簡素にデフォルメされていた一刀彫人形に写実性と動きを加え、芸術作品にまで高めました。国内のさまざまな博覧会で絶賛され、日本を代表する工芸美術品として、1893年にはアメリカで行なわれたシカゴ万国博覧会にも出陳されました。一刀彫は伝統を守りながら、その時代その時代に合わせて形を変え、現在も日本を代表する伝統工芸品の一つとして、たくさんの人達に愛されています。
一刀彫の特長はなんといっても、その大胆で力強い鑿跡を残した造形と、繊細で緻密な極彩色の絶妙な調和でしょう。
すべてを曲面にしてしまうのではなく、あえて鑿跡を残す事によって、木の温もりをも感じさせ、鋭く美しい動きを表現している木面、そしてそれを鮮やかに彩る金箔や岩絵具による華麗な色彩は、薪能の装束から影響を受けたもので、雅な宮廷文化を思い起こさせてくれます。
人形には、その土地の思いが染み込んでいくといいます。
奈良人形とも呼ばれる一刀彫には、奈良の雅な文化が染み込み、いつまでも変わらない本物の素晴らしさを次の世代にも伝え続けています。出典 誠美堂公式サイト
通販でお取り寄せ出来る奈良一刀彫・奈良人形
螺鈿漆器
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螺鈿漆器の特徴
正倉院や春日大社に今も伝わる漆工芸品には、漆塗りの部分に美しく光る貝をはめ込む、螺鈿(らでん)という技術が使われています。そんな美しい漆工芸の技術が今も奈良で伝えられています。
奈良漆器の特徴
まずは螺鈿と呼ばれる貝を用いた装飾です。奈良の螺鈿は厚みのある夜光貝などの貝の板を精巧に加工する技術が特徴です。貝の輝きに奥行きがあり、品格の高い仕上がりになります。さらに、水晶や琥珀(こはく)、タイマイなど、国際色豊かな素材を用いることも特徴です。奈良時代に大陸から伝わった貴重な漆工芸品が残る奈良らしい技術です。
作り方
漆を塗る土台となるものを形づくります。檜(ひのき)の薄い板を曲げたり重ねたりして、形を作ります。麻布を貼った上に下地を作り漆を塗っては研ぐことを何度も繰り返します。螺鈿の原料の夜光貝を糸鋸(いとのこぎり)などで細かく切って文様を作ります。蒔絵(まきえ)の場合は、漆を塗った部分に金粉などを蒔(ま)きます。螺鈿も蒔絵も、貝や金粉の上から一旦漆を塗り込めます。最後に慎重に漆を研ぎ出すと、下から螺鈿や蒔絵文様が姿を現します。
出典 奈良県公式サイト
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奈良団扇
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奈良団扇の特徴
奈良団扇の歴史は古く、春日大社の神官によって1,300年前に日本で初めて作られた「禰宜うちわ」を基として考案されました。奈良団扇の特徴は、透し彫りによって作られる華やかで美しい見た目はもちろんのこと、骨組みが一般的な団扇の倍以上の骨数があるため、よくしなり良い風をおこします。
団扇は古代、中国より魔よけとして日本に伝わり、儀式的なものに使用されていたようです。奈良団扇の起源は、奈良時代に春日大社の神官の手内職として、実用的で丈夫な渋団扇が大々的に作られていました。中世に新しい団扇が考案されてから次第に洗練され、江戸時代の中頃には、今日奈良団扇の特徴である透し彫りの施された立派な団扇に進展しました。
出典 池田含香堂公式サイト
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