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守礼門
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沖縄県那覇市の見どころ 名所 人気の観光スポット 旅の情報!首里城、守礼門、識名園、玉陵、園比屋武御嶽、円覚寺、慈眼院(首里観音堂)、崇元寺、沖縄県護国神社、沖宮、識名宮、末吉宮、久米至聖廟、首里金城町石畳道、国際通り、第一牧志公設市場、波の上ビーチ、波上宮..

こちらでは沖縄県那覇市の観光名所、おすすめスポット、人気の観光地、美しい自然景観、絶景、神社仏閣などのパワースポット、日本遺産、文化遺産、歴史遺産、美術館、博物館、歴史的建造物などの特徴と魅力を動画、画像とともにご紹介します。また、那覇市周辺のホテル、旅館、宿泊施設もこちらから予約出来ます。

那覇市について

那覇市は、沖縄県の県都として、人口32万人余を有する政治・経済・文化の中心地です。また首里台地(標高165m)から東シナ海に面して、ゆるやかに傾斜した平野部を背景に、古くから港が整備されるなど、海外との交流拠点として、「琉球王国」文化が華ひらいた街です。気候的には、暖かい黒潮の影響もあって、冬でも暖かく、夏は、四方の海から吹く風が吹き抜ける、年間の平均気温差が少ない、すごしやすい土地です。先のアジア太平洋戦争末期の沖縄戦では、街は焦土と化しましたが、1972年の日本復帰を経て、多くの県民市民の努力と協力によって、現在の那覇市へと発展してきました。21世紀をむかえ、那覇市は、沖縄都市モノレール・中心市街地及び新都心地区を核としたまちづくりを展開しています。

出典 那覇市公式サイト

首里城

首里城

首里城

首里城の特徴

首里城は沖縄の歴史・文化を象徴する城であり、首里城の歴史は琉球王国の歴史そのものです。

首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中に多くの施設が建てられています。いくつもの広場を持ち、また信仰上の聖地も存在しています。これらの特徴は、首里城に限られたものではなく、グスクと呼ばれる沖縄の城に共通する特徴でした。他のグスクは首里城との競争に敗れ滅んでしまいましたが、首里城はグスクの特徴を保持しながら新たな発展を遂げたのです。

首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成しています。正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としています。西を正面とする点は首里城の持つ特徴の一つです。中国や日本との長い交流の歴史があったため、首里城は随所に中国や日本の建築文化の影響を受けています。正殿や南殿、北殿はその代表的な例です。

首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもありました。また、各地に配置された神女(しんじょ)たちを通じて、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上のネットワークの拠点でもありました。さらに、首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍していました。首里城は文化芸術の中心でもあったのです。

1879年(明治12)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われました。1930年代には大規模な修理が行われましたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼しました。戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなりましたが、大学移転後に復元事業が推進され現在に及んでいます。復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしています。2000年12月には、首里城跡が世界遺産に登録されました。

出典 首里城公園公式サイト

所在地:沖縄県那覇市首里金城町1−2

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首里城 · 〒903-0815 沖縄県那覇市首里金城町1−2
★★★★☆ · 城

守礼門

守礼門の特徴

守礼門は、儀式用の中国様式の多彩色の木造の門で、首里城のすぐ近くに立っています。尚清王の命令で1527年から1555年の間に建てられ、沖縄で最も有名で広く知られたシンボルの1つとなっています。元々、それより100年前に約500メートル西に建てられていた中山門が首里城の主な儀式用の門となっており、王朝の高官は中山門で使節団やその他の重要な客人を迎えていました。しかし、首里城から距離があることが不便になったので、新たに首里城に近いところに門を作る必要が出てきました。

守礼門という名前は、明の皇帝が1579年に「琉球は守礼の邦と称するに足りる」と言ったことに由来しています。それを受けて、漆塗りの板に「守禮之邦」との言葉が刻まれ、門に掲げられました。これは、琉球は儒教の原則を守るとの宣言であり、また一般の人々にそうするよう命じる勧告でもありました。守礼門には時に応じて別の板が掲げられることもありましたが、守礼門は守礼という儒教の美徳に最も強く結びついています。

設計に見られる海外からの影響

中山門と同じく、守礼門は中国の「櫓」付きの牌坊という屋根付きの門の様式を基にしています。赤い瓦が葺かれた門と同じ幅の1段目の屋根中央に2段目の屋根が載っています。琉球の全てのモニュメント的建造物同様に、この設計は基本的な中国様式に様々な様式の影響を取り入れた折衷様式です。彫刻が施された石板が門を基から支えるという異例の構造で、これは台風対策であった可能性があります。守礼門は、高さ約7メートル、幅約8メートルと、縦方向より横方向に長く、また一切の扉がないことから、歓迎と祝賀の空気を醸し出し、防衛用であるとの雰囲気はほとんどありません。

沖縄文化のアイデンティティーのシンボル

守礼門は琉球文化の有名なシンボルだったので、首里城を紹介する画像にはしばしば象徴的な建造物として登場します。ペリー提督とともに1853年から1854年にかけて琉球王国を訪れたアメリカ軍の技師や画家も、守礼門の記録を残しています。守礼門は1879年の琉球王国の廃止を生き延び、首里城が日本軍の兵舎、学校、そして神道の神社になってからもその入り口に立ち続けました。1933年には日本の国宝に指定されましたが、1945年の沖縄戦で破壊されました。沖縄における、そして文化における極めて大きな重要性に鑑み、首里で戦後真っ先に守礼門が再建されました。現在の守礼門は1958年に完成したものです。

出典 首里城公園公式サイト

所在地:沖縄県那覇市首里金城町1丁目7−1

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守礼門 · 〒903-0826 沖縄県那覇市首里金城町1丁目7−1
★★★★☆ · 史跡

識名園

識名園(しきなえん)の特徴

識名園(俗にシチナヌウドゥンと呼ぶ)は、琉球王家最大の別邸で、国王一家の保養や外国使臣の接待などに利用されました。1799年につくられ、1800年に尚温王冊封(さっぽう)のため訪れた正使(せいし)趙文揩、副使(ふくし)李鼎元(りていげん)を招いています。王家の別邸としては1677年、首里の崎山(さきやま)村(現在の首里崎山町)に御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)がつくられました。現在の首里カトリック教会がある所です。首里城の東に位置したので「東苑(とうえん)」とも呼ばれ、その後につくられた識名園は、首里城の南にあるので「南苑(なんえん)」とも呼ばれました。

識名園の造園形式は、池のまわりを歩きながら景色の移り変わりを楽しむことを目的とした「廻遊式庭園(かいゆうしきていえん)」です。「廻遊式庭園」は、近世に日本の大名が競ってつくるようになった造園形式ですが、識名園では、「心」の字をくずした池の形(心字池)を中心に、池に浮かぶ島には中国風あずまやの六角堂や大小のアーチが配され、池の周囲には琉球石灰岩を積みまわすなど、随所に琉球独特の工夫が見られます。識名園はかつて、春は池の東の梅林に花が咲いてその香りが漂い、夏には中島や泉のほとりの藤、秋には池のほとりの桔梗(ききょう)が美しい花を咲かせ、「常夏(とこなつ)」の沖縄にあって、四季の移ろいも楽しめるよう、巧みな配慮がなされていました。

1941年(昭和16年)12月13日に国指定「名勝」となりましたが、1945年(昭和20年)4月、第2次世界大戦の沖縄戦で破壊されました。1975~96年(昭和50年~平成8年)総事業費7億8千万円をかけて復元整備され、1976年(昭和51年)1月30日国指定「名勝」、2000年(平成12年)3月30日に国指定「特別名勝」となりました。2000年(平成12年)12月2日には、ユネスコ世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)として登録されました。指定面積は41,997平方メートル(約12,726坪)で、そのうち御殿(ウドゥン)をはじめとするすべての建物の面積は、合計で643平方メートル(約195坪)となっています

出典 那覇市公式サイト

所在地:沖縄県那覇市真地421−7

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識名園 · 〒902-0072 沖縄県那覇市真地421−7
★★★★☆ · 庭園

玉陵

玉陵(たまうどぅん)の特徴

玉陵は、1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、その後、第二尚氏王統の陵墓となりました。墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋となっています。創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られました。全体のつくりは、当時の板葺き屋根の宮殿を表した石造建造物になっています。墓域は2.442平方メートル。沖縄戦で大きな被害を受けましたが、1974年から3年余りの歳月をかけ、修復工事が行われ、往時の姿を取り戻して今日に至っています。

昭和47年5月15日に玉陵墓室石牆(たまうどぅんぼしつせきしょう)が国指定有形文化財建造物に、玉陵は国指定記念物史跡に指定されました。また、2000年12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。そして2018年12月25日(火曜)、玉陵が建造物として正式に国宝に指定されました。沖縄県内で建造物の国宝指定は初となります。

出典 那覇市公式サイト

所在地:沖縄県那覇市首里金城町1丁目3

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玉陵 · 〒903-0815 沖縄県那覇市首里金城町1丁目3
★★★★☆ · 史跡

園比屋武御嶽

園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)の特徴

文化財(県指定史跡)指定年月日:昭和30年11月29日
首里城観会門(しゅりじょうかんかいもん)と守礼門(しゅれいもん)の中間の道沿いにある琉球王府の御嶽。御嶽は「社(やしろ)」を意味します。正面の石門は拝殿(はいでん)の役目をし、石門の奥の森全体が御神体(ごしんたい)になっています。この形式は、本殿と拝殿のある現在の神社形式になる前の古い形式です。石門正面の扁額(へんがく)には「首里の王おきやかもいかなし(尚真(しょうしん)王の神号)の御代にたて申候正徳(もうしそうろうしょうとく)十四年己卯(つちのとう)(1519)十一月二十八日」と刻まれ、創建の年を伝えています。

石門は八重山竹富島の西塘(にしとう)の作といわれ、唐破風(からはふ)の板葺(いたぶき)屋根の形を表わし、軒は垂木形(たるきかた)に彫り出し、内妻(うちづま)に懸魚(けぎょ)、大棟(おおむね)に唐草文を彫り出し、棟(むね)の中央に火焔宝珠(かえんほうじゅ)、両端に鬼瓦をのせ、さらに鴟尾(しび)を飾り、日本と中国の両様式を取り入れた琉球独特の石造建築です。1933(昭和8)年国宝指定、1945(昭和20)年の沖縄戦で大破、その後石門内の森も削られて姿を変えています。1957(昭和32)年トラバーチン石で復元されましたが、1978(昭和53)年に亀裂が生じたので1982(昭和57)年解体し、昔どおりに琉球石灰岩を使い、古材はもとの位置に再使用するなどの方針で修理着工し、1986(昭和61)年3月完成しました。

出典 那覇市公式サイト

所在地:沖縄県那覇市首里真和志町1丁目17−3

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園比屋武御嶽石門 · 〒903-0816 沖縄県那覇市首里真和志町1丁目17−3
★★★★☆ · 史跡

円覚寺跡

円覚寺跡の特徴

首里城の北に位置する臨済宗の寺院で、琉球黄金時代を築いた尚真王が1494年に建立。鎌倉の円覚寺を模していますが、仏殿は琉球建築の粋を極め、国宝にも指定されたが沖縄戦により放生橋を残して全て焼失しました。現在は総門と放生池のみが再建され、沖縄県指定有形文化財になっています。

文化財(国指定史跡) 指定年月日:昭和47年5月15日
天徳山(てんとくざん)円覚寺は七堂伽藍(しちどうがらん)を備えた琉球第一の寺で、旧王家の菩提寺でした。1492(弘治5)年、尚真(しょうしん)王の創建で芥隠禅師(かいんぜんじ)の開山。首里城の北側の丘の斜面に西向きに建てられ、建物が並ぶ内囲いの敷地(約3,560平方メートル)のまわりは、正面に高い石垣を築き、残りの3面は土留(どど)めの石垣をまわしてありました。内囲いのまわりは、円覚寺松尾と呼ばれた深い緑でおおわれ、さらにそのまわりは石垣で囲まれていました。正面石垣の中央に総門、その左右に石造破風屋根の掖門があり、主要建物は総門から奥へ一直線に配置されていました。

総門をくぐり放生橋を渡ると山門がそびえ、その奥に重層屋根の仏殿があり、その中央には金剛会図(こんごうえず)の壁面を背にした須弥壇(しゅみだん)があって三尊像が安置され、さらにその前に三面三方牌が置かれていました。仏殿の後ろの一段高い基壇に寺内最大の龍淵殿が建ち、先王の位牌がまつられていました。入母屋づくりのこの大殿は、屋根に鬼面瓦をのせた琉球唯一の建物でした。大殿の東北隅には枯山水の小庭があり、殿の南に軒を連ねて庫裏があり、その手前に石冷泉(井)がありました。仏殿の南手前に鐘楼、その南に行堂、仏殿の北隣に獅子窟(ししくつ)(旧御照堂)がありました。

円覚寺は1945(昭和20)年の沖縄戦で、半壊した龍淵殿と放生橋を残して、他は全部失われてしまいました。戦後、寺の跡は琉球大学の職員住宅地や運動場になったりして姿を変えました。現在、復元された総門、掖門と修復された放生橋あたりがわずかに昔を偲ばせています。

出典 那覇市公式サイト

所在地:沖縄県那覇市首里当蔵町2丁目

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円覚寺仏殿跡 · 〒903-0812 沖縄県那覇市首里当蔵町2丁目
★★★★☆ · 史跡

慈眼院(首里観音堂)

慈眼院(首里観音堂)の特徴

首里観音堂は、1618年に建立され、正式名称は慈眼院。流歌「上り口説(ぬぶいくどぅち)」で「旅の出立ち 観音堂・・・」と歌われ名前が広く知られたこともあり、首里観音堂と呼ばれています。寺院の創立縁起は、琉球王朝時代、佐敷王子(のち尚豊王)が人質として薩摩に連れて行かれた際、父・尚久王は息子が無事帰国できたら首里の地に「観音堂」(観音様をお祀るお堂)を建てることを誓願されました。その後、無事帰郷したので、1618年、首里の萬歳嶺という丘(高台)に観音堂を建て、その南に、慈眼院を建立しました。

1645年より毎年、琉球王国国王が国の安全を祈願・参拝するようになりました。また、当時、琉球王国は貿易(航海)が国の中心であり、首里の萬歳嶺という丘からは視界が開け、那覇の町・港・海・空を一望でき、渡航の安全・国の安全を祈願するのに最良な地でした。その地に、すべての人を守り、すべての人を救い、願いを叶える千手観音菩薩像をお祀りし、国王はすべての祈願をしておりました。今日でも、県内各地より善男善女が家内安全、交通安全、旅行安全、健康祈願で参拝しています。

出典 慈眼院(首里観音堂)公式サイト

所在地:沖縄県那覇市首里山川町3丁目1

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首里観音堂(慈眼院) · 〒903-0825 沖縄県那覇市首里山川町3丁目1
★★★★☆ · 仏教寺院

崇元寺跡

崇元寺跡の特徴

文化財(国指定建造物)指定年月日:昭和47年5月15日
旧崇元寺は、臨済宗の寺院で山号を霊徳山(れいとくざん)といい、舜天(しゅんてん)から尚泰(しょうたい)までの歴史の国王の神位を安置した琉球王国の国廟(こくびょう)。冊封使(さっぽうし)がやってきた時、首里城で新しい国王を封ずる儀式の前に、なくなった先王の霊位をまつる「先王諭祭(さんおうゆさい)」の儀式をここで行いました。この寺の創建は、門の前にある崇元寺下馬碑の銘から尚清(しょうせい)王が即位した直後の1527年と推定されています。

第一門及び石牆(せきしょう)とは、正面中央部の石造拱門(アーチ門)と周囲を巡る石垣をいい、門口には木製の扉が取り付けられ、門の大きさは幅約13.18m、厚さ約3.94m、中央の間口約2.51m、左右の門口は、それぞれ約2.18mになっています。この門を中心に両側に連なる石垣は切石積みになっています。全体は凸形になっていて両掖門(りょうわきもん)を備えた石門になっています。尚真(しょうしん)から尚清(しょうせい)の代(15世紀~16世紀中頃)に建てられたと推定され、独創的な意匠により、沖縄の代表的な石造建築のひとつとされています。

出典 那覇市公式サイト

所在地:沖縄県那覇市泊1丁目

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崇元寺跡 · 〒900-0012 沖縄県那覇市泊1丁目
★★★★☆ · 史跡

沖縄県護国神社

沖縄県護国神社の特徴

由緒

沖縄県護国神社が鎮座する那覇市奥武山の地は、古くは奥(ア)武之(フノ)山(ヤマ)と呼ばれる集落のない小島でした。「奥武(アフ)」とは、神々と通ずる地という意味があり、古くから信仰の地とされてきました。
護国神社は、明治三十九年にこの地で県出身戦没者の御霊を招き鎮め、神として祀る「大招魂祭」が県主催で行われたのが始まりです。その後、昭和十一年に沖縄県招魂社として社殿が建立され、昭和十四年に沖縄県護国神社へと改称、昭和十五年に内務大臣指定護国神社となりました。
そして、皇紀二六〇〇年の那覇市の筆頭事業として境内が整備されました。昭和二十年の沖縄戦では米軍の砲撃を受けましたが社殿は奇跡的に残り、戦後は学校用地として供用されるなどを経て、沖縄戦戦没者をお祀りしようとの声が沸き起こり昭和三十四年に仮社殿が建立されました。現在の社殿は沖縄県内外御遺族崇敬者の御浄財により昭和四十年に竣功し、現在に至っております。昭和四十七年沖縄本土復帰を機に宗教法人認証申請の末、翌四十八年に「宗教法人沖縄県護国神社」となり県内外より多くの参拝者が訪れています。

ご祭神

沖縄県護国神社のご祭神は、日清日露戦争以降、先の大戦で国難に殉ぜられた沖縄県出身の軍人軍属を始め沖縄戦にて散華された一般住民の尊い御霊も神様としてお祀りしています。その中には那覇の十・十空襲や対馬丸の犠牲者なども含まれます。さらに、北海道から鹿児島までの本土出身軍人軍属で沖縄戦戦没者も合祀しており、現在のご祭神名簿には一七七、九一三柱のご祭神が記されています。
(柱数は追加合祀の都度異なります。)

出典 沖縄県護国神社公式サイト

所在地:沖縄県那覇市奥武山町44

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護国神社 · 〒900-0026 沖縄県那覇市奥武山町44
建造物

沖宮

沖宮の特徴

沖宮の創建は、尚金福王の時代である1451年という記録があります。江戸城築城が1457年、コロンブスのアメリカ大陸到達が1492年です。同じ世紀の出来事と考えると遥かなる歴史に感慨を覚えます。1713年琉球王府発刊の「琉球王国由来記」によると15世紀中頃に那覇港内で不思議に輝くものを国王が首里城よりご覧になり、漁夫に命じて探らせると、尋常ならざる古木を得たそうです。翌夜より水面が輝くことがなかったので、この地に宮社を建て古木をお祀りし、以後、国王始め一般の尊崇をあつめ、特に中国往来の進貢船や薩摩往来の貢船、離島航路などの航海安全の祈願に尊信されたということです。琉球舞踊の話になりますが、旅の無事を祈る琉球舞踊「上り口説(ヌブイクドウチ)」の歌詞の一節「沖ヌ側マディ親子兄弟連リティ別ユル…」とある「沖」は、実は沖宮のことです。

琉球の王様をはじめ、江戸方面へ上る多くの人々が、よき旅となるよう沖宮へご参詣された情景に思いを馳せると、歴史とロマンを感じていただけるのではないでしょうか。沖宮は、創建当時、現在の那覇港にありました。明治41年(1908年)、築港工事の為、琉球八社の一つ安里八幡宮の境内地隣域に遷座されました。その古式ゆかしい本殿は、昭和13年(1938年)伊東忠太(いとうちゅうた)博士の推挙により国宝に指定されますが、第二次世界大戦により残念ながら焼失してしまいました。戦後、昭和36年(1961年)に通堂町へ仮遷座し、昭和50年(1975年)に奥武山公園内へ遷座し現在に至ります。

出典 My神社公式サイト

所在地:沖縄県那覇市奥武山町44

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琉球八社 沖宮 · 〒900-0026 沖縄県那覇市奥武山町44
★★★★☆ · 神社

識名宮

識名宮の特徴

識名宮は琉球八社と呼ばれた由緒ある社の一つです。社号は琉球神道記(一六〇八年)には「尸棄那権現」、琉球国由来記(一七一三年)には「姑射山権現」と記されています。尚、前者には「縁起亦明ナラズ。熊野神ト見ヘタリ。石窟惟霊地也」と祭神のことが記されています。さらに近世沖縄における熊野三山、いわゆる権現信仰としては末吉宮は熊野新宮に、普天満宮は熊野那智(飛龍)に、識名宮は熊野本宮に見立てて信仰されていました。識名宮は特に琉球王の篤い信仰を承け、尚元王(一五五六~七二年)の長子尚康伯の病気回復に霊験を得て、識名宮と神応寺を建て、大あむしられに看守させたといわれています。尚賢王(一六四四年)から毎年一・五・九月の吉日に国王の行幸が始まりました。一六七一年隣接の神応寺は臨済宗より真言宗に改宗(住持覚遍和尚)。戦前の識名宮神社の社殿はもと洞内にありましたが湿気がひどく腐朽し、康煕十九年(一六八0年)に洞外に移築して、瓦葺としました。ときの惣奉行守浄(阿姓四世)によって、三月十一日~四月二〇日にかけて拝殿・石垣などの修補がなされ完成しました。(阿姓大宗家/那覇市史資料集1-7).王府時代は神職の役俸と営繕費は王府から支給されていました。

戦前の建物は、三間社流造り、本瓦葺き、桁行三・七m、梁間二・四mの建築で、沖宮本殿に類似していましたが、残念ながら、戦災で焼失しました。戦後、識名宮奉賛会が発足して昭和四三年十二月に社殿が復興し、昭和四十七年五月十五日神社本庁包括、宗教法人識名宮となりました。

出典 識名宮公式サイト

所在地:沖縄県那覇市繁多川4丁目1−43

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琉球八社 識名宮 · 〒902-0071 沖縄県那覇市繁多川4丁目1−43
★★★★☆ · 神社

末吉宮

末吉宮の特徴

文化財(国指定史跡)指定年月日:昭和47年5月15日
末吉宮は首里城北方の小高い森の上にあり、琉球八社のひとつで社壇(しゃだん)とも呼ばれています。『琉球神道記(りゅうきゅうしんとうき)』(1648年)などの史料によると、尚泰久(しょうたいきゅう)王のころ(1454~60年)、鶴翁和尚(かくおうおしょう)が熊野三所権現を迎え、まつったのが始まりと伝えられています。神社の下のほうには、組踊(くみおどり)「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」の舞台となり、「末吉の寺(シーシヌティラ)」と呼ばれ親しまれてきた遍照寺(へんしょうじ)(もと万寿寺)の跡があります。この寺は山号を大慶山(たいけいざん)といい、宗派は真言宗でした。尚泰久王が贈った鐘の銘に、天順元年(1457年)とあることから、末吉宮と同時に建てられたようですが、はっきりとした年代はわかっていません。

石畳の参道を登ると小さな谷を越す石橋が設けられ、本殿に続いています。本殿は三間社(さんげんやしろ)流れづくりで、瓦葺きの木造建造物です。また、神社の周りの森には、イベと呼ばれる聖地が転々とあり、境内地が古くから信仰の対象として、崇められてきた様子が伺えます。1997(平成9)年に、本殿の補修工事及び彩色復元塗装工事、1999(平成11)年拝殿が86年ぶりに復元されました。

出典 那覇市公式サイト

所在地:沖縄県那覇市首里末吉町1丁目8

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琉球八社 末吉宮 · 〒903-0801 沖縄県那覇市首里末吉町1丁目8
★★★★☆ · 神社

久米至聖廟

久米至聖廟の特徴

久米至聖廟は1676年に孔子及びその門弟(四配:顔子、曾子、子思子、孟子)を祀るために久米村に建てられました。久米村は唐栄ともよばれ、中国渡来の人々が多く生活していました。1718年には琉球初の学校「明倫堂」が設立されました。第二次世界大戦で壊滅したため、1975年に那覇市若狭に再建された後、2013年6月、戦争による焼失から69年ぶりにルーツである久米の地に移転しました。

出典 那覇市公式サイト 久米至聖廟公式サイト

所在地:沖縄県那覇市久米2丁目30−1

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久米至聖廟(孔子廟) · 〒900-0033 沖縄県那覇市久米2丁目30−1
★★★★☆ · 寺院・礼拝所

首里金城町石畳道

首里金城町石畳道の特徴

文化財(県指定史跡・名勝)指定年月日:昭和39年5月1日
尚真王(しょうしんおう)時代(1477~1526年)、首里のまちの中、首里と各地方を結ぶ道が整備されました。そうした整備の一つで1522年ごろ首里と島尻地方を結ぶ道筋も整えられました。その一部がこの石畳道です。幅は平均して約4m、全長約300mで、敷石には表面を小叩(こたた)き仕上げという方法で整えられ、約20~30cmの琉球石灰岩を用いています。石の敷き方は乱敷(みだれじ)きという方法。沖縄戦での戦火を奇跡的にまぬがれ、石畳の両側には屋敷囲いの石垣も残されています。古都首里の屋敷街の面影を今日に伝える貴重な道です。

出典 那覇市公式サイト

所在地:沖縄県那覇市首里金城町2丁目

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首里金城町石畳道 · 〒903-0815 沖縄県那覇市首里金城町2丁目
★★★★☆ · 観光名所

国際通り

国際通りの特徴

沖縄県庁近くに位置する那覇市の国際通りは、全長約1.6kmにわたって、お土産品店や雑貨店、居酒屋、カフェ、レストランなど多彩なお店が軒を連ねる観光ストリート。通り沿いや周辺にはホテルも数多くあります。
国際通りは、太平洋戦争で廃墟となった那覇市の中でいち早く復興を遂げたことから「奇跡の1マイル」と評された歴史を持っています。
毎週日曜日(雨天中止)12時~18時には、国際通りの区間約1.3km(県庁北口交差点から蔡温橋交差点の間)の一般乗用車を通行禁止し、歩行者優先道路となる「トランジットマイル」を開催。オープンカフェやストリートパフォーマンス、各種イベントや国際通りマルシェなど開催しています。

出典 沖縄観光コンベンションビューロー公式サイト 国際通り公式サイト

所在地:沖縄県那覇市牧志2丁目

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〒900-0013 沖縄県那覇市牧志2丁目8
〒900-0013 沖縄県那覇市牧志2丁目

第一牧志公設市場

第一牧志公設市場の特徴

第一牧志公設市場とは?

第一牧志公設市場のはじまりは、戦後間もない頃に開南バス停付近に自然発生的に闇市がたち、1950年にそれらをたばねた那覇市営の牧志公設市場として開設されました。

1969年に第二牧志公設市場が開設されたのをきっかけに、牧志公設市場から第一牧志公設市場と改名したのです。1972年の沖縄の本土復帰の年に建て替えが完成し、市民・県民の台所として親しまれてきました。1982年の平和通りのアーケード完成もあって、第一牧志公設市場を中心としたマチグヮーは多くの県外や外国人の観光客にも人気のエリアとなりました。1990年にはシンガポールなどアジアの食堂などをモデルとして、一階の店舗で購入した食材を二階の食堂で調理し食べることができるサービス。いわゆる「持ち上げ」のサービスを開始。実際に店舗で目にした食材を購入し沖縄料理として味わうことによって、より深く沖縄文化への理解とより親しみを持った文化交流としての面も生まれました。

2000年代に入ると施設の老朽化などに伴う調査などをもとに施設の建て替えが検討され、2019年に仮設市場へ移行。周辺の商店街なども含めたマチグヮーの商業や文化交流のための中核となる施設として、4年の歳月を経て2023年3月に新しい第一牧志公設市場が誕生したのです。

出典 第一牧志公設市場公式サイト

所在地:沖縄県那覇市松尾2丁目10−1

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第一牧志公設市場 · 〒900-0014 沖縄県那覇市松尾2丁目10−1
★★★★☆ · マーケット

波の上ビーチ

波の上ビーチの特徴

那覇空港まで車で約15分の場所にあります。更衣室・ロッカーなどの設備が整い、泳いだあとにそのまま街へと出かけることもできます。那覇市唯一のビーチで、健康のために朝・夕に泳ぐ人や子供連れで海を楽しむ家族など市民の憩いの場所にもなっています。てぶらでバーベキューも楽しむことができます。

出典 那覇市公式サイト

所在地:沖縄県那覇市若狭1丁目25−9

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波の上ビーチ · 〒900-0031 沖縄県那覇市若狭1丁目25−9
★★★★☆ · 浜

波上宮

波上宮の特徴

当宮の創始年は不詳ですが、遙か昔の人々は洋々たる海の彼方、海神の国(ニライカナイ)の神々に日々風雨順和にして豊漁と豊穣に恵まれた平穏な生活を祈りました。その霊応の地、祈りの聖地の一つがこの波の上の崖端であり、ここを聖地、拝所として日々の祈りを捧げたのに始まります。波上宮の御鎮座伝説に『往昔、南風原に崎山の里主なる者があって、毎日釣りをしていましたが、ある日、彼は海浜で不思議な”ものを言う石”を得ました。以後、彼はこの石に祈って豊漁を得ることが出来ました。この石は、光を放つ霊石で彼は大層大切にしていました。このことを知った諸神がこの霊石を奪わんとしましたが里主は逃れて波上山《現在の波上宮御鎮座地で花城と(はなぐすく)も呼んだ》に至った時に神託(神のお告げ)がありました。即ち、「吾は熊野(くまの)権現也(ごんげんなり)この地に社を建てまつれ、然(しか)らば国家を鎮護すべし」と。そこで里主はこのことを王府に奏上し、王府は社殿を建てて篤く祀った』と云われています。

以来、中国・南方・朝鮮・大和などとの交易(琉球王府直轄事業)基地であった那覇港の出船入船は、その都度、波上宮の鎮座する高い崖と神殿を望み、出船は神に航路の平安を祈り、入船は航海無事の感謝を捧げたといいます。また人々は常に豊漁、豊穣を祈り琉球王府の信仰も深く、王みづから毎年正月には列を整え参拝し、国家の平安と繁栄を祈るなど朝野をあげての崇敬をあつめ、琉球八社(官社)の制が設けられるや当宮をその第一に位(くらい)せしめ、「当国第一の神社」と尊崇された。明治の御代になるや、同二十三年官幣小社に列格し、沖縄総鎮守としてふさわしい社殿、神域の結構を見るに至りましたが、先の大戦で被災しました。戦後は、昭和二十八年に御本殿と社務所が、同三十六年には拝殿が再建されました。そして平成五年、平成の御造営により、御本殿以下諸社殿が竣工。翌年五月、諸境内整備が完工しました。

出典 波上宮公式サイト

所在地:沖縄県那覇市若狭1丁目25−11

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波上宮 · 〒900-0031 沖縄県那覇市若狭1丁目25−11
★★★★☆ · 神社

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