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埼玉県幸手市はこんなに素敵なところ!
権現堂堤の桜、幸手宿と幸手の街並み、古い建物、岸本家住宅主屋、行幸湖、棒出し、マリア地蔵、義賑窮餓之碑、平将門の首塚(幸手市指定文化財史跡)..
こちらでは埼玉県幸手市の名所、人気の観光スポット、観光地、美しい自然景観、絶景、公園、神社、お寺などのパワースポット、文化遺産、歴史遺産、美術館、博物館、歴史的建造物、モダン建築などの特徴と魅力を動画、画像とともにご紹介します。
幸手市の名所、人気の観光スポット、観光地、美しい自然景観、絶景、神社、お寺、美術館、文化遺産、歴史遺産、歴史的建造物

ねえねえボンゾくん、埼玉県の幸手市ってどんなところなの?おすすめの名所や人気の観光スポット、素敵な場所を教えてくれる?

幸手市には素敵なところがたくさんあるよ! 権現堂堤の桜、幸手宿と幸手の街並み、古い建物、岸本家住宅主屋、行幸湖、棒出し、マリア地蔵、義賑窮餓之碑、平将門の首塚なんかがおすすめだね。それじゃあ、一緒に幸手市の魅力、詳しく調べてみようね!
幸手市の名物、美味しいもの、お土産をこちらの記事で紹介しています。
権現堂堤の桜

権現堂堤の桜
権現堂堤の特徴
四季を通して花の色づきを楽しめる、お花見の名所
幸手市には、権現堂堤に代表される美しい水辺と、緑豊かな自然があります。市では、この恵まれた環境を活かし、自然の生態系に配慮し、人と自然が共存できる景観づくりを進めています。
桜で有名な権現堂堤ですが「桜の季節が終わってからも四季折々に咲く花を」という思いから、紫陽花、曼珠沙華(彼岸花)なども植えられました。季節ごとの植物の色づきをお楽しみいただけることでしょう。
「権現堂」という地名の由来
「権現堂」(ごんげんどう)という地名の由来は、江戸時代後期に幕府が編さんした地誌「新編武蔵風土記稿」(しんぺんむさしふうどきこう)に記されております。
権現堂村の項に
村内に熊野・若宮・白山の権現を合祀せし旧社あれば、この村名起これり
(訳)
村の中に、「熊野権現社」「若宮権現社」「白山権現社」という三つの神社を一緒にまつった旧い神社があったので、「権現堂村」という名になった。とあり
熊野若宮白山権現合社の項に
村の鎮守なり、正智院持、この社、
古大社にて村名の起こりとし云も此権現三社なり(訳)
村の鎮守で、昔は大きな神社だった。「権現堂」という村名の起こりも、この「権現三社」である。このように、村の中に「三つの権現」があったことから、「権現堂村」の名前が付けられたと考えられています。この社の創建は、天正年間(1573~92年)と伝えられていますが、はっきりとしたことは分かっていません。
権現堂桜堤は、天正4年(1576年)頃に築かれたといわれています。しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により部分的に作られていったものが後につながり、権現堂堤になったとされております。
権現堂の歴史について
権現堂川は暴れ河川としても恐れられ、宝永元年(1704年)に、はじめて権現堂堤が切れてより、幾度も決壊をしてきました。その被害は遠く江戸にまでおよび、大江戸八百八町の半ばは水浸しになると言われ江戸を守る堤として大切に管理されておりました。
天明6年(1786年)権現堂堤木立村の破堤により濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難していましたが、それも根こそぎ流され平野村須賀間に流れ着き無残にも75名という流死者が出てしまいました。このため、現在でも犠牲者の供養が行われております。
この後も、幾度にも水害に襲われ、享和2年(1802年)にも、権現堂堤の月の輪堤部分が決壊をし、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ております。
巡礼の碑
「母娘の順礼の悲話」もこのときのものとされております。
文政9年(1826年)には、度重なる堤の決壊に困り、堤の補強にと上宇和田村から松石村に至る権現堂堤に松の苗木1,300本が植えられましたが、根づかず何度か植えなおしが行われました。ですが、結局根づかなかったようです。
この頃になると、堤の管理が甘くなり、天保3年(1832年)頃には、堤通りへ竹や木が植え付けられ林同様に茂る場所や屋敷同様に堤を囲い、河岸場の便利に任せ小段を切りならし、作付けのための小段とその他を掘り返し苗木を植え付けるなどの実態が指摘されております。野菜などの栽培をするようになったのもこの頃だと思われます。
この後、時代は江戸から明治へと移り変わり、明治9年6月4日に明治天皇の東北巡幸の際に築堤工事を視察するために駕籠を止めさせました。このとき、堤の名を行幸堤とすることが許され、記念碑を建てるために金100円が下賜されました。
この頃、権現堂堤周辺は見渡す限り平野で堤上からは、西に富士山、東に筑波と眺めがよく、大正6年に「幸手町誌」を刊行した後上辰雄氏は、権現堂堤の風光として次のように記しています。
「春は若草のしとね青きを素足に心地快くふむで、眼下一面黄金と光る油菜の花をながめながら蝶と戯れスミレ・タンポポ・ツクシ等と摘み草に一日の暮れるのを忘れるだらう」
このように、権現堂堤は遠い昔より、人々の憩いの場所として親しまれてきました。度重なる水害にもめげず、その都度修復を行い権現堂堤と共に人々は暮らしてきたのです。
桜まつり
桜の名所“権現堂桜堤”の桜のトンネルをお楽しみください
毎年3月から4月にかけて権現堂公園を会場に開催しています。
春を迎えると長さ1kmにわたる堤に約1,000本のソメイヨシノが咲き誇り桜のトンネルを作ります。また、堤の隣には、菜の花が作付けされ、桜の淡いピンクと菜の花の黄色とのコントラストが見事です。
桜まつり期間中は、約100店舗の露店が出店し、さまざまなイベントが行われ、多くのお花見客で賑わいます。
出典 幸手市観光協会公式サイト
所在地:埼玉県幸手市内国府間887-3
幸手宿 幸手の街並み 古い建物
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幸手宿の特徴
幸手宿のなりたち
日光道が整備される以前より、幸手は利根川水系による河川舟運と、鎌倉街道中道の人の往来で、交通の要衝として栄えていました。特に中世では、古河公方の重臣・幸手一色氏との縁が深く、政治的・軍事的にも重要な場所であったことが窺われます。
江戸時代になり日光道が整備されると、一六一六(元和二)年に幕府より人馬継立を命ぜられ幸手宿となりました。幸手宿は日光道のみならず、将軍家による日光社参の道である日光御成道との結節点でもあり、重要な地だったと考えられます。
幸手宿の構成
宿駅としての幸手宿は、南から右馬之助町、久喜町、仲町、荒宿の4ヶ町より構成されており、開宿当初は久喜町、仲町の2町が宿の中心で、荒宿、右馬之助町が宿に組み込まれたと考えられています。
一八四三(天保十四)年の「日光道中宿村大概帳」によると、幸手宿の長さ585間(9町45間)、道幅6間、家数962軒、人数3,937人、本陣1軒、旅籠27軒とあり、城下町に併設された宿を除くと、千住宿、越ヶ谷宿に次ぐ日光道3番目の規模を誇っていました。
出典 幸手市観光協会公式サイト
岸本家住宅主屋
岸本家住宅主屋の特徴
旧日光街道に西面する。木造つし2階建、桟瓦葺。正面切妻造、背面寄棟造とする主体部の正面に、寄棟造屋根の平側半部のような下屋を付けています。下屋を店舗とし、主体部境には土戸構えを残しています。ひときわ目をひく特異な外観で、往時の幸手宿の賑わいが偲ばれます。
出典 文化庁公式サイト
所在地:埼玉県幸手市中2丁目1−9
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行幸湖

行幸湖
行幸湖の特徴
行幸湖(みゆきこ)は、大規模な県営公園として整備が進められています。権現堂大噴水(スカイウォーター120)は、120年を迎えた埼玉県を象徴するために、噴水噴き上げ高も120フィート(36.6メートル)。迫力満点です。また、水辺の遊歩道など、うるおいとやすらぎにあふれた空間が訪れる人を優しく迎えてくれます。
出典 幸手市観光協会公式サイト
所在地:埼玉県幸手市権現堂
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棒出し
棒出しの特徴
棒出しはかつて江戸川の流頭部(権現堂川・ 逆川との接続部)に設けられていた水利施設。今日の幸手市側を「西棒出し」、野田市側を「東棒出し」と称していました。機能としては、丸太を数千本打ち込むことにより川幅を狭め、江戸川・権現堂川から逆川・常陸川への水流を確保し逆流を防止する役割をもっていました。
天保年間に建造がなされ、それにより江戸川沿いの水害は減少しましたが、その分利根川沿いに水害が発生するようになりました。この後1875年(明治8年)および1884年(明治17年)に玉石積みに組み替えられるも、大水により崩壊したため1885年(明治18年)に角石積みとなりました。1898年(明治31年)にはセメントを利用した角石張りに改良されました。1910年(明治43年)に発生した大水害を受け河川改修が行われ、これに伴い江戸川の流頭部が北へと移り、また権現堂川は締め切られました。1927年(昭和2年)に行われた新たな流頭部への関宿水閘門の設置に合わせて、1929年(昭和4年)に棒出しは撤去されました。
棒出しの設置年については諸説あり、上記の天保期(1830年 ~ 1843年)の他に1822年(文政5年)とがあるが、1783年(天明3年)の文書に棒出しの記述がみられることから、1783年(天明3年)には建造されていた可能性があります。棒出しの上には関宿の関所が設置されており、関宿藩により管理されていました。
棒出しに利用されていた石材は栃木県の岩船山で採掘されたものが水運で渡良瀬川を流下し運ばれたものとみられています。この岩は岩舟石と称され、火成岩のため加工しやすく耐候性が高いという特徴があります。棒出しから撤去された角石は現在、中の島公園や千葉県立関宿城博物館に展示されており、旧関宿小学校の石垣や茨城県猿島郡五霞町の善照寺鐘付堂石垣にも利用されています。
出典 ウィキペディア
所在地:埼玉県幸手市大字西関宿
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マリア地蔵
マリア地蔵の特徴
現在の権現堂集落農業センターの敷地内で発見されたマリア地蔵は、江戸末期の文政3年(1820年)子胎延命(したいえんめい)地蔵大菩薩の文字が刻まれており、赤ん坊を右手に抱いている立像です。
「イメス智言」の文字や、錫杖(しゃくじょう)上部に刻まれた十字架、仮託(かたく)信仰の象徴である魚と蛇の彫刻等から、隠れキリシタンの信仰対象であったと考えられます。
昭和58年3月24日に市指定有形民俗文化財となっています。
出典 幸手市観光協会公式サイト
所在地:埼玉県幸手市権現堂
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義賑窮餓之碑
義賑窮餓之碑の特徴
義賑窮餓之碑(ぎしんきゅうがのひ)は正福寺(しょうふくじ)の境内にあります。
天明3年(1783年)の浅間山の大噴火によって火山灰が厚く積もり、大飢饉が発生しました。翌4年春には飢え死にする人が増えたので、幸手宿の豪商21人が金銭・穀物を出し合い、幸手の民を助けました。
このことが代官伊奈忠尊(いなただたか)に聞こえ、21人と里正(りせい)(名主)は陣屋に呼ばれ褒賞(ほうしょう)を受けました。この善行を讃え(たたえ)後世に伝えようとこの碑を建てました。
出典 幸手市観光協会公式サイト
所在地:埼玉県幸手市北1丁目10
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平将門の首塚(幸手市指定文化財史跡)
平将門の首塚(幸手市指定文化財史跡)の特徴
平将門は、平安時代中期の武者で現在の茨城県西部を地盤としており、周囲との対立に端を発して国家に対する謀反者とみなされ、自ら新皇(しんのう)と称して関東を制圧しようとしました。しかし、天慶(てんぎょう)3年(940年)に下野(しもつけ)の豪族藤原秀郷(ふじわらのひでさと)と平貞盛(たいらのさだもり)連合軍に敗れ、下総(しもうさ)国猿島郡で討たれたといいます。
神明内の通光山浄誓寺(つうこうざんじょうせいじ)の境内奥にある高さ3m程の塚には風化した五輪塔(ごりんとう)が建てられており、ここに将門の愛馬が運んできた首が埋められたと伝えられています。
昭和58年3月24日に市指定史跡となっています。
出典 幸手市観光協会公式サイト
所在地:埼玉県幸手市神明内
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幸手市について
幸手市の特徴
市の位置・地勢
幸手市は、埼玉県の北東部にあり、東経139度43分、北緯36度4分に位置しています。面積は33.93平方キロメートル、市域は東西8.8キロメートル、南北7.6キロメートルです。
地形は、平坦で標高の最も高いのが外国府間地区の15.9メートル、最も低いのは戸島地区の4.7メートルとなり、標高差はわずか11.2メートルです。
地勢は古東京湾の一部が陸地化したもので、東端には下総台地の一部があるものの、ほかは沖積低地で、利根川と渡良瀬川の氾濫によって形成された沖積層の粘性土がほとんどです。地形のなりたち
幸手の位置と高さ
幸手の市域は、関東平野の利根川流域にあり、最も標高が高い所は外国府間地区で15.9メートル、最も低い所は戸島地区の4.7メートルで、その標高差は11.2メートルと全般的に低く平らな地形となっています。
平均的には、市域北部で9メートル前後、南部で6メートル前後と、北から南にかけて緩い傾斜を持っており、市域のほとんどは低地に分類されます。
市域東部の江戸川沿いの槙野地地区は、野田市域まで続く下総台地の一部であり、低地との標高差が2メートル程あります。低地とは
低地は河川の力が大きく働くところで、昔は沼や湿地が多くありました。
低地の地質は沖積層と呼ばれており、関東平野が海だった頃や、河川が氾濫した時に積もった砂や泥などから出来ています。台地とは
槙野地地区に分布する台地は、低地より古い更新世(180ー160万年前から1万年前)の地層が主体となってできており、地表を関東ローム層が被っています。関東ローム層とは、火山灰から形成された関東地方に分布する地層で、赤土と呼ばれています。台地は低地の地層の下にも埋没しています。
関東平野では幸手付近を中心に沈降運動(造盆地運動)が生じているため、台地が沈んで埋没し、低地との高さの差がはっきりしなくなっています。上流から多くの河川が集まってくるのも、この沈降運動の影響です。地質
約1万2000年前に縄文時代が始まり、徐々に海面が上昇して関東平野の奧へ海(奧東京湾)が広がる縄文海進と呼ばれる現象がありました。そのため、約5000年前には幸手の付近はこの海の底で、海辺であった槙野地の台地に人が暮らしていました。槙野地原遺跡はその跡です。
市域の大部分を占める低地は完新世(約1万年前~現在)の地層(沖積層)から成っており、未固結(岩石になっていない)の柔らかい地層が地下30メートル付近まで分布しています。沖積層では、貝殻を交えたシルトや粘土の層の上部に、河川が運んだ砂・シルト・粘土の層が重なっていることから、低地は浅い海(奥東京湾)が河川の土砂で埋まって形成されたと考えられています。
幸手の地形
幸手は、埼玉県の中川低地と呼ばれる地域にあります。槙野地地区に分布する台地は宝珠花台地の一部で、大きくは野田市域から続く下総台地に属します。
河川がつくった地形
今の幸手の地形は河川の力でつくられてきました。
河川は上流から土砂を運んで下流で堆積させます。流速が速いと粒子の大きなれきや砂も運ばれますが、流速が遅くなると粒子の大きなものから順に堆積していきます。
平野を流れる河川が大雨などで流量が増すと、普段より多くの土砂が下流に運搬されます。しかし河川の水が河道からあふれるほどになると、そこで流速は急激に低下し河道の外側に砂などが堆積します。氾濫を繰り返すと河道の外側に周囲よりわずかに高い砂地の土地ができます。これを自然堤防と呼びます。
自然堤防が発達すると一度あふれた水が河川にもどりにくくなるため自然堤防の背後には水はけの悪い土地や池ができます。これを後背湿地と呼びます。土地利用
昔の人々は集落や畑を、水はけがよく地盤が安定している自然堤防の上に作りました。幸手の古くからの中心市街地は、高須賀から市街地南部の南二丁目まで続く大きな自然堤防上にあります。
また、水路を掘って後背湿地を開拓し水田を広げてきましたが、それには多くの労力と時間が必要でした。中でも沼のような低湿地では、堀上田という特殊な方法で水田がつくられました。低湿地をさらに掘り下げて掘(堀り潰れ・クリーク)をつくるとともに、掘った土を両側に盛って微高地をつくり、そこに稲を植えました。堀は網の目のようにつながり、作物・肥料などを船で運ぶ水路や、用水・排水路となっていました。旧渡良瀬川の川筋と中川(庄内古川)の間にある神扇地区は典型的な低湿地帯で、1576年に権現堂堤がつくられて旧渡良瀬川がなくなった後も水の引かない土地でしたが、17世紀以降に堀上田がつくられました。昭和40年代に近代的な改良工事がなされ、現在の姿となりました。幸手は交通の要衝としての歴史が長く、鎌倉時代から戦国時代にかけてその第一期を迎えました。吾妻鏡によれば、高野の渡が奥州への重要な拠点とされ、ここを通る鎌倉街道が軍事・交易上大切な道となっていました。高野の渡は、今の下高野満願寺橋付近にあったと考えられています。
江戸時代が第二期にあたり、日光道中6番目の宿場が置かれ、日光御成街道が合流し、筑波道が分岐する宿場町として栄えました。利根川の付け替え工事が行われ、権現堂川・江戸川を中心とした舟運が盛んになり、権現堂や関宿の河岸には回船問屋が立ち並ぶようになりました。河川の改修によって新田開発も進み、農業が発展しました。
明治以降が第三期で、それまでの舟運が衰退し、国道4号が東北地方と東京を結ぶ全国的な幹線道路として機能してきました。また、東武鉄道によって東京と結ばれ、東京の都心から50キロメートル圏の位置にあることから都市化が進み、住宅団地・工業団地などの整備を経て、水田が広がる都市としての現在の姿となりました。
出典 幸手市公式サイト
幸手市の歴史
幸手の歴史
約8000~6000年前の縄文時代、今の低地は海底でしたが、槇野地の台地では狩猟や採集による生活が営まれていました。縄文時代の終わり頃には気候が寒冷化にむかい、海が湿地に変わり、弥生時代に移っていきました。高野永福寺の由来を記した龍燈伝記によると、弥生時代後期の約1800年前に、日本武尊が「薩手が島」に上陸し、田宮の雷電神社に建御雷の神を祀ったことが「さって」の呼び名の由来とされています。
縄文時代
幸手市の地形は大部分が低地で、縄文時代(約1万2000年~2200年前)は海の底でした。しかし、東端の槙野地だけは下総台地の上に立地していて、当時の人々が暮らした跡が確認されています。
今から約8千年~6千年前の縄文時代、すでに幸手には人が住み、狩猟・採集生活を送っていたことが、槙野地の遺跡の出土品などからわかっています。
弥生時代~古墳時代
弥生時代(約2200年~1800年前)には、海岸線は現在とほぼ同じ位置になり、この頃から古墳時代(約1800年~1300年前)にかけての幸手市の景観は湿地の中に自然堤防(川が運んだ土砂が堆積した川沿いの高い部分)が散在していたものと推測されます。
大和朝廷時代になると幸手を含めた関東にもその影響が及び、日本武尊が東征に際して「薩手が島」に上陸、田宮の雷電神社に農業神を祭ったという言い伝えが残っています。
奈良時代~平安時代
奈良・平安時代(約1300年~800年前)には生活技術も向上し、農業の形や道具も近代とほぼ同じになっていたと考えられています。この時代の伝説として神明内の浄誓寺に天慶の乱(940)で敗れた平将門の首塚(市指定文化財史跡)があります。
奈良・平安時代になると、平将門伝説が木立、神明内、平須賀などに残されており、中央との交通も開けてきたと考えられます。
鎌倉時代~室町時代
鎌倉・室町時代(約800年~400年前)においては、古河公方の家臣の一色氏の領地であった時期が長く、その陣屋があったことが『新編武蔵風土記稿』に記されており、陣屋稲荷と城山耕地という地名が現在の幸手駅周辺に語り継がれています。
鎌倉時代から戦国時代にかけて奥州路の拠点、高野の渡を擁し、鎌倉街道が通っていた幸手は軍事・交易上でも交通の要衝として栄え、源頼朝、義経、静御前、西行法師などが足跡を残しています。
また、室町時代以降、この地は古河公方の家臣、一色氏の領地となり、現在の幸手駅周辺に陣屋が築かれていたと思われます。
幸手の名称に関しては、慶長4年(1599)、当地にあてた手紙に「幸手領幸手町」とあり、約400年前には一般的に使われるようになったと考えられています。江戸時代
江戸時代(約400年~130年前)の初めは、一色氏の領地と関宿藩領とがありましたが、その後大部分は天領となりました。ただし、下総国に属した関宿向河岸と槙野地は長く関宿藩領でした。
また、伊奈備前守親子三代による利根川の付替え工事等が行われ、江戸川・権現堂川・葛西用水等が整備されて多くの新田が開かれ、農業も盛んになりました。そして、これらの河川を利用した水運により、江戸周辺上流域を結ぶ流通の要地として権現堂河岸が栄え、さらに日光社参や参勤交代のための街道整備により日光御成道と日光道中が合流し筑波道が分岐する地点の宿場町として繁栄し、現在の市街地の基盤が形成されたのです。江戸時代になると幸手は交通の要地として今に続く繁栄の礎を築くことになります。まず、五街道のひとつ日光道中と徳川将軍家が日光参詣に使った御成道が合流し、さらに筑波道が分岐する宿場町として栄えました。そして街道が整備され参勤交代や交易の往来が盛んになるにつれて、現在の市街地につながる基礎が形作られてきました。
またこの時代、治水に通じていた伊奈氏の手で利根川の付け替え工事が行われ、権現堂川、江戸川を中心とした舟運が隆盛を迎え、新田開発の進展もともなって、権現堂河岸、関宿向河岸は回船問屋が立ち並ぶ繁栄を示すことになります。明治維新後~現在
明治維新の後、下総知県事、葛飾県、埼玉県へと所属の返遷があり、1889年に町村制が施行され、幸手町が生まれました。
第2次世界大戦後、1954年・1955年および1956年の行幸村・上高野村・吉田村・権現堂川村・八代村や桜田村と豊岡村の一部との合併分離を経て、1986年に市制を施行し、1996年に市制10周年を迎え、現在に至っています。明治になると、22年(1889)に町制がしかれ、その後何度かの合併、編入、分離を経て、昭和31年(1956)に幸手町が誕生。昭和61年(1986)には市制を施行、現在の幸手市となっています。
出典 幸手市公式サイト
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