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神奈川県鎌倉市はこんなに素敵なところ!
鶴岡八幡宮、鎌倉五山 建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺、銭洗弁天宇賀福神社、高徳院の鎌倉大仏、長谷寺、稲村ヶ崎、鎌倉七切通、鎌倉七口、釈迦堂切通し、明月院 あじさい寺、材木座海岸、由比ヶ浜、七里ヶ浜、神奈川県立近代美術館鎌倉文華館鶴岡ミュージアム..
こちらでは神奈川県鎌倉市の名所、人気の観光スポット、観光地、美しい自然景観、絶景、公園、神社、お寺などのパワースポット、歴史遺産、美術館、博物館、歴史的建造物、モダン建築などの特徴と魅力を動画、画像とともにご紹介します。
鎌倉市の名所、人気の観光スポット

ねえねえボンゾくん、神奈川県の鎌倉市ってどんなところなの?おすすめの名所や人気の観光スポット、素敵な場所を教えてくれる?

鎌倉市には素敵なところがたくさんあるよ! 鶴岡八幡宮、鎌倉五山 建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺、銭洗弁天宇賀福神社、高徳院の鎌倉大仏、長谷寺、稲村ヶ崎、鎌倉七切通、鎌倉七口、釈迦堂切通し、明月院 あじさい寺、材木座海岸、由比ヶ浜、七里ヶ浜、神奈川県立近代美術館鎌倉文華館鶴岡ミュージアムなんかがおすすめだね。それじゃあカートくんと一緒に鎌倉市のこと、詳しく調べてみようね!
鎌倉市のおすすめグルメ、美味しいもの、お土産をこちらの記事で紹介しています。
鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮の特徴
武家社会が誕生した鎌倉時代。
かつて、鎌倉の地は国の中心でした。
その当時、「鎌倉の守り神」、「武士の守り神」として人々の精神のよりどころとなっていたのが鶴岡八幡宮です。この場所を起点に、鎌倉では今に残る多くの歴史や文化が生まれ、武士の都が栄えていきました。
ご鎮座800年余、鎌倉の文化の起点として、鎌倉と共に歩みを進めてまいります。武士の都・鎌倉の文化の起点
鶴岡八幡宮は鎌倉幕府と共に始まり、今日まで、鎌倉の発展を見守り、支えてきました。
この場所から、多くの歴史の物語や、今に受け継がれる伝統文化が生まれました。
「武士の都・鎌倉の文化の起点」とも言える鶴岡八幡宮の由緒を通して、歴史や文化、鎌倉の地についてご案内いたします。武家社会の起点
鶴岡八幡宮の始まり
始まりは、鎌倉幕府を築いた源頼朝公の祖先源頼義が、京都の石清水八幡宮を勧請(神様の御分霊を他の地に還し祀ること)したことです。頼義は石清水八幡宮を篤く信仰しており、源氏の氏神として八幡神を鎌倉の由比ヶ浜辺に祀りました。
その後、源頼朝公が現在の地にお還しし、鶴岡八幡宮の基礎を造りました。東国社会の中心的存在へ
源頼朝公は鶴岡八幡宮を篤く崇敬しておりました。
治承4年(1180年)、源頼朝公が初の武家政権である鎌倉幕府の拠点を鎌倉の地に構え、同年に先祖ゆかりの八幡宮を現在の場所に遷し祀ります。幕府、鎌倉、ひいては東国社会の守護神として篤い崇敬の誠を寄せたのです。
さらに、幕府の重要祭事として、放生会や流鏑馬、相撲、舞楽など今日に継承される祭事を境内でとり行いました。
鶴岡八幡宮は東国社会の精神的中心、社会的中心だったのです。武運の神『八幡神』
八幡神を祀る神社は、全国に4万社以上あると言われています。古くより源氏の氏神とされ、「武運の神」としても全国で信仰されました。
鶴岡八幡宮では、「応神天皇」、「神功皇后」、「比売神」の三柱の神様を御祭神としてお祀りしております。
応神天皇は第十五代の天皇であり、父は仲哀天皇、母は神功皇后となります。元明天皇の和同五年に現在の宇佐神宮にお祀りされ、その後清和天皇の御代に石清水八幡宮に勧請され、後白河法皇の建久二年に当宮にお祀りされました。造船を奨め、大陸の文化を盛んに取り入れるなどの功績があります。
神功皇后は仲哀天皇の皇后であり、亡くなられた仲哀天皇のご遺志を継ぎ、熊襲征伐や三韓征伐を達成し、応神天皇が即位するまでの間、政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれています。鎌倉文化の起点
今に残る武家文化 「流鏑馬」の発祥
「流鏑馬神事」とは、一般的には武士が馬で駆けながら、弓矢で3つの的を射抜くことによって年占をしたり、当たった的や矢をご守護として頂く神事です。
鶴岡八幡宮の流鏑馬神事は、源頼朝公が天下泰平・国家安穏の祈願し、鎌倉時代に催されたのが始まりです。年に1度の一大行事で、多くの人々の前で御家人たちが御神前で弓馬の技を披露する晴れの場でありました。
今日でも、9月の例大祭に於て「流鏑馬神事」として、鎌倉武士さながら狩装束に身を包み、神事が執り行われております。国宝に因む
「破魔矢」の発祥鶴岡八幡宮の初詣では、魔除けの縁起物「破魔矢」を手にした多くの参拝者を見かけます。授与される破魔矢は、源頼義が石清水八幡宮から勧請した際に賜った国宝「黒漆矢」に因んで作られたとされています。
仏教思想との交わり
受け継がれた「放生会」かつて、八幡神は仏が姿を変えて現れたとする考えが進みました。この仏教的思想を取り入れ、源頼朝公によって始められたのが「放生会」です。殺生禁断に基づき、捕らえた生き物を放ち功徳をほどこす法会です。その期になると東国一帯に殺生禁断の命が出されるほど、幕府あげての一大神事でありました。
現在は、放生会が執り行われた旧暦8月15日に当たる、9月14日から16日までの3日間、一年を通して最も重い祭事である「例大祭」として、以来絶えることなく800年の歴史と伝統が伝えられております。
近年には、生命の尊さや季節に対する感性を守り伝えようと、例大祭で「鈴虫放生祭」が始められました。都市鎌倉の起点
まちづくりの中心
参道「若宮大路」由比ヶ浜海岸より八幡宮へ一直線に延びるおよそ2kmの参道・若宮大路。京都の朱雀大路になぞらえ、源頼朝公が鎌倉の街づくりの第一歩として、また、妻・北条政子の安産を祈願して、頼朝公自らの指揮のもと、御家人たちが土石を運んで築造したと伝えられています。今でも多くの建物が立ち並ぶように、鎌倉の中心軸となり都市が発達していきました。
鎌倉の移り変わり
鎌倉幕府が終焉を迎えると鎌倉の地は活気を失います。しかし、武家政権発祥の地としての信仰は篤く、江戸時代には徳川家康が鶴岡八幡宮を中心に社寺の復興・保護に力を注いだことを機に、鎌倉の観光地化が進みます。明治・大正時代にかけては、川端康成や小林秀雄など鎌倉を好む作家が増え、「鎌倉文士」として多くの文化人が居住、滞在しました。
そして今日では、歴史を継承した街として年間を通じて国内外より多くの方が訪れます。鎌倉巡りの起点
ゆかりの地を巡る
武家社会の成立を機に、鎌倉の地では多くの歴史の物語が生まれました。
鶴岡八幡宮の周辺には、八幡宮や源頼朝の物語を語り継ぐ史跡が多く残ります。史跡を巡ることで、古都・鎌倉の悠久の時を辿ることができるでしょう。
出典 鶴岡八幡宮公式サイト
所在地:神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31
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鎌倉五山
鎌倉五山の特徴
五山制度とは各寺の格を定めるもので、官が任命した住持(住職)を順次上位の寺へと昇任させていくという中国の制度です。北条氏が中国にならってはじめたとされています。
初めは建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺などの鎌倉の主な禅刹が五山と呼ばれていましたが、鎌倉幕府が滅びたのちに京都を中心とする順位が定められ、京都の南禅寺、東福寺、建仁寺と鎌倉の建長寺、円覚寺で五山とされた時代もありました。その後、1386(至徳3)年に足利義満が改定し、現在の鎌倉五山・京五山が定められました。
※両五山の上に京都の南禅寺を置く鎌倉五山第一位 建長寺
鎌倉五山第二位 円覚寺
鎌倉五山第三位 寿福寺
鎌倉五山第四位 浄智寺
鎌倉五山第五位 浄妙寺
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
建長寺

建長寺
建長寺の特徴
正式には巨福山建長興国禅寺といい、
山号は地名の巨福呂から、
寺号は年号からつけられました。本尊は木造地蔵菩薩坐像。
鎌倉五山の第一位、
臨済宗建長寺派の本山です。1253(建長5)年、
鎌倉幕府第5代執権北条時頼が
中国(宋)の高僧蘭渓道隆を迎えて創建した
日本最初の禅宗専門道場で
幕府と強く結び付きました。創建当初は中国の径山万寿寺と同じく
主要な建物が一直線に並ぶ
伽藍配置であったといわれますが、
大地震や火災の被害にたびたびあい、
そのつど再建されて、
現在の堂宇(※1)は
ほとんど近世の再建・移築になるものです。1325(正中2)年と1326(嘉暦元)年には、
建長寺造営再建のため
中国(元)に貿易船を派遣して、
その費用にあてたりしています。寺宝としては、
蘭渓道隆像(絵画)などの国宝をはじめ
数多くの文化財があり、
中でも1255(建長7)年に
北条時頼がつくらせた梵鐘は、
その美しさが関東第一といわれています。鎌倉時代の末ころ、
寺のお坊さんその他の人数は
約千人に近い数であったといわれます。寺で必要とされた米は
1年間で三~四千石(※2)、
年貢米は五千貫(※3)に達していたといわれ、
寺領も莫大なものだったと考えられますが、
確かな史料は残っていません。塔頭(※4)は49院を数えたといわれますが、
現存しているのは12院です。
西来庵・妙高院・同契院・天源院
正統院・龍峰院・宝珠院・回春院
禅居院・華蔵院・長寿寺・円応寺また、野菜や豆腐入りのけんちん汁は
ここが発祥といわれているほか、
一番奥にある半僧坊は
天園ハイキングコースへ通じています。※1 堂、殿堂のこと
※2 30万〜40万升(450〜600トン)
※3 18.75トン
※4 寺院の中にある個別の坊
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市山ノ内8
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円覚寺
円覚寺の特徴
二度の元寇(文永・弘安の役)で亡くなった
両軍の兵士を弔うために、
1282(弘安5)年、
鎌倉幕府第8代執権北条時宗が
中国(宋)の高僧無学祖元を迎えて
創建した禅宗寺院です。臨済宗円覚寺派の本山で、鎌倉五山の第二位。
本尊は宝冠釈迦如来坐像。
妙香池、白鷺池などの池があり、
国の名勝に指定されています。無学祖元は1279(弘安2)年、
時宗に招かれて来日し、
建長寺の住職となりました。
その指導法は懇切丁寧で、時宗をはじめ
多くの鎌倉武士の参禅(※1)を得ました。1281(弘安4)年の弘安の役に際しては、
時宗の政策にも大きな影響を与えました。時宗が円覚寺を建てたのは、
帰国しようとしていた無学祖元を
引き止めるためであったともいわれます。国宝の舎利殿は室町時代の名建築、
大平寺(廃寺)の仏殿を移築したもの。山門の東から
長い急な石段を登った山の上にある大鐘は、
1301(正安3)年に物部国光によって作られた
鎌倉時代の代表的な名鐘の一つです。
関東地方最大の鐘で、
これもまた国宝に指定されています。夏目漱石の小説『門』では、
主人公が鎌倉の禅寺を訪ね、
数日、坐禅をするくだりがあります。
その描写は、かつて若き日の漱石が
円覚寺で坐禅をした経験を踏まえたものです。そのほか、島崎藤村、有島武郎らも
執筆のために訪れるなど、
円覚寺は、多くの文士の創作の舞台、
活動の場となりました。※1 坐禅して禅を修めること
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市山ノ内409
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寿福寺
寿福寺の特徴
1200(正治2)年、源頼朝の妻・北条政子が頼朝の死後、
頼朝の父である義朝の旧邸跡に
明庵栄西を招いて創建した寺で
13世紀後半になって禅宗の寺院となりました。本尊は釈迦如来坐像。
その脇には大きな仁王の像があります。
鎌倉五山の第三位。三代将軍実朝もしばしば訪れ、
最盛期には十数か所の塔頭を擁する
大寺であったといいます。山門から石畳の参道が中門まで続いており、
現在は中門の手前まで拝観できます。栄西は二度も中国(宋)に渡った
比叡山の高名な僧ですが、
禅密兼修の立場から
中国で学んだ禅を広めようとして
天台宗の比叡山延暦寺から圧力を受け、
59歳で鎌倉に来た栄西を、
源頼家や北条政子、その子源実朝は歓迎しました。栄西は日本に茶の文化を広めたことでも有名で、
栄西が書いた『喫茶養生記』という本が
寺の宝物になっています。山門前から左の小径を登ると墓地があり、
明治時代の外務大臣の陸奥宗光 、
俳人の高浜虚子 、
作家の大佛次郎などの墓があります。墓地の山側にはやぐら(※1)が二つ並び、
一つは政子、一つはその子源実朝の墓だといわれています。
中にはともに供養の五輪塔があります。実朝のやぐらには唐草のような模様が見られるので、
「からくさやぐら」とか「絵かきやぐら」といわれます。※1 仏堂または供養、埋葬の場として中世に造られた石窟
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市扇ガ谷1-17-7
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浄智寺
浄智寺の特徴
1281(弘安4)年、
鎌倉幕府第5代執権北条時頼の子
宗政の菩提を弔うために建てられた
臨済宗円覚寺派の禅宗寺院。苔むした参道の階段と
鐘楼のある山門が印象的な
鎌倉五山の第四位の寺。浄智寺創建は円覚寺と同様の時期で、
この頃から14世紀後半(南北朝)にかけてが
鎌倉禅林の盛時です。開基が北条貞時の次に執権となった
宗政の子・師時でもあり、
1323(元亨3)年に行われた
貞時13 回忌の際には、
参加した僧侶は200人を超え、
建長寺、円覚寺、寿福寺の三寺に次ぐ
規模を誇りました。しかし現在は、
総門・山門(鐘楼)・庫裏・仏殿(曇華殿)
が残るのみです。
山門は鐘楼を兼ねた珍しいもので、
1340(暦応3)年の銅鐘がおかれています。仏殿には、室町時代に作られたという
三世仏坐像が安置されています。
(県の重要文化財)むかって左から
阿弥陀・釈迦・弥勒の各如来で、
それぞれ過去、現在、未来を意味する
といわれています。仏殿の近くには、鎌倉一の大きさの
コウヤマキやハクウンボク(※1)があり、
ゆたかな緑におおわれた境内は
国の史跡に指定されています。境内の奥には、岩を削った鎌倉ならではの
やぐらも見ることができます。やぐらの中には石仏のほか、
鎌倉七福神のひとつである布袋像が
ユーモラスな姿で佇んでいます。また、小説家・澁澤龍彦の墓があることでも
知られています。※1 沙羅双樹といわれている
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市山ノ内1402
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浄妙寺
浄妙寺の特徴
1188(文治4)年、
源頼朝の重臣・足利義兼(※1)により、
退耕行勇を開山として創建されたと伝えます。
どっしりとした屋根の本堂が風格を感じさせる
鎌倉五山の第五位。退耕行勇は鶴岡八幡宮の供僧(※2)で、
北条政子や源実朝にも厚く敬われた高僧です。
鎌倉時代に造られた
「木造退耕禅師坐像」が伝わっており、
国の重要文化財に指定されています。浄妙寺は、はじめは真言宗の寺で
極楽寺といいました。しかし、建長寺の開山蘭渓道隆の弟子である
月峯了然が住職となって
臨済宗の禅刹に改められ、
のち正嘉年間(1257-59年)頃に
寺号も浄妙寺と変わりました。中興開基は足利尊氏の父・貞氏で、
室町時代は鎌倉公方(※3)の菩提寺として
栄えました。外門・総門・山門・仏殿・法堂
方丈・禅堂・経堂などの伽藍や
多数の塔頭(※4)を持つ大寺院でしたが、
火災などのために徐々に規模が縮小し、
現在は総門・本堂・客殿・庫裏という
たたずまいとなっています。寺の東の山に鎌足稲荷と呼ばれる
祠があります。ここは大化の改新の立役者である藤原鎌足が
鹿島神宮に参詣に向かう途上、
夢のお告げに従って
鎌槍(※5)を埋めた場所といわれ、
諸説ある鎌倉の地名の由来の
一つになっています。※1 北条政子の妹の夫
※2 神社で仏事や管理を行う僧
※3 鎌倉府の長官として関東を支配した足利氏の称
※4 禅宗寺院の敷地内にある小寺院や別坊
※5 穂先に鎌のような枝刃がついている槍
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市浄明寺3-8-31
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銭洗弁天 宇賀福神社
銭洗弁天 宇賀福神社の特徴
佐助ヶ谷の最奥に三方を尾根に囲まれ、
古くから隠里と呼ばれ、
福神の住むところといわれた凹地があります。
銭洗弁財天宇賀福神社は
そこに鎮座しています。銭洗弁天のもとは
扇ヶ谷の八坂神社の末社でしたが
1970年に独立し、
名を銭洗弁財天宇賀福神社としました。
御神体は、体は蛇、頭は人の形をしていて
水の神とされています。創建のいきさつについては、
次のような話が伝えられています。平安時代の終わり頃は世の中が乱れ、
そのうえ飢饉が続いて人々の苦しみはひどく、
目も当てられない有様でした。源頼朝は人々の命を救おうと
日夜神や仏に祈っていましたが、
巳の年の1185(文治元)年、
巳の月、巳の日の夜に、
夢にひとりの老人が現れ、ここから西北の方に一つの谷があり、
きれいな泉が岩の間から湧き出ている。
今後この水を汲んで絶えず用い、
神仏を供養せよ。
自分はこのかくれ里の主の宇賀福神である。
と言って姿を消しました。夢からさめた頼朝がすぐ家来をやって
その場所を探らせると、
確かに、岩の間から
綺麗な水が湧き出ているのが見つかりました。頼朝はさっそく石工に命じて穴ぐらを掘らせ、
社を建てて宇賀福神をおまつりし、
毎日その水を運んで供えたところ、
天下は次第に治まり、
人々は安楽な日々を送るようになった
といいます。その後、第5代執権北条時頼もこの神を敬い、
人々に参拝させました。そして「銭をこの水で洗い清めれば
福銭となり、一家は栄え、
子孫は長く安らかになるであろう」と、
自ら持っていた銭を巳の日に洗って祈ると、
人々もそれにならって
銭を洗い清めるようになりました。いつしか銭洗いの水と呼ばれるようになり、
今でもこの水でお金を洗う人が絶えません。
(銭洗水は鎌倉五名水の一つです)
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市佐助2-25-16
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高徳院 鎌倉大仏

鎌倉大仏
高徳院 鎌倉大仏の特徴
武家政権と民衆の安寧を願ってつくられた
金銅の鋳造仏です。
つくられた当時の姿をほぼ保っているものの、
1252(建長4)年に鋳造が開始されたこと以外は
謎につつまれています。仏像としては
鎌倉で唯一の国宝に指定されています。重量は約121t。
高さ(座長)は11.31m、
台座も含めると13.35mあります。『吾妻鏡』では
1238(暦仁元)年に大仏堂事始とあり、
勧進(※1)下知(※2)されていることから、
幕府の力によってつくられたと考えられます。最初につくられたのは木造の大仏で、
1243(寛元元)年に
大仏と大仏殿が竣工しています。10年ほど後に
金銅の大仏に造り替えられたといわれますが、
確かなことはわかっていません。
胎内に入ると高度な鋳造技術がうかがえます。もともとは大仏を覆う
大仏殿内に安置されていましたが、
鎌倉幕府が滅びたあとに
台風や大津波により大仏殿が倒壊し、
1498(明応7)年頃には
露坐(※3)となったと考えられます。境内のあちらこちらに残る礎石から、
大仏殿の規模が想像できます。鎌倉大仏は大きいだけでなく、
美しいことでも知られます。弓なりになっている鼻の線からつづくまゆげ、
水平な目、微笑をたたえた口には、
ギリシャ彫刻的要素も認められます。大仏のところどころに金箔が残っているのを
わずかに見ることができますが、
つくられた当時は、
これが全部に施されていたといいます。後光山の“緑の後光”を背にして、
やや前かがみに佇むその美しい姿は、
多くの文学作品の題材となってきました。歌人の与謝野晶子は
かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は
美男におはす 夏木立かな
と詠みました。その歌碑が高徳院境内にあるほか、
3基の文学碑が立っています。※1 社寺・仏像の建立・修繕などのために金品を募ること
※2 上から下へ指図すること
※3 屋根のない所に座ること
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市長谷4-2-28
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長谷寺
長谷寺の特徴
鎌倉では杉本寺に次いで古い寺とされ
736(天平8)年に創建した
と伝えられている長谷寺。もともとは新長谷寺といい、
奈良の長谷寺を本とし
創建年も奈良の長谷寺にならった
といわれます。実際の創建年次は不詳ですが、現存資料中に
1264(文永元)年の梵鐘銘があることから
13世紀には創立されていたことがわかります。本尊の十一面観音菩薩立像は
奈良の長谷寺の像と
同じクスノキから彫られたといわれ
一木二体(※1)の像と伝えられます。
高さ9.18mある像高は
木造の仏像では日本最大級です。坂東三十三ヶ所観音霊場の第四番札所として
江戸期以来参詣者が多く
特に観音さまの縁日である毎月18日には
賑わいをみせます。また、12月18日に開かれる「歳の市」では
今も参道にだるまや熊手、神棚など
正月を迎えるための縁起物をあつかう露店が
軒を連ねます。この日は年に一度、観音さまの足に直接触れる
「御足参り祈願」も行われます。本尊以外にも長谷寺には
多くの宝物が伝わっています。御前立の十一面観音菩薩立像は
右手に錫杖を持つ長谷寺特有の形式で、
かつては本尊の大観音の前に立っていました。三十三応現身像は観音菩薩の
33の変化の姿すべてが揃った群像です。懸仏は神の依代(※2)を表す鏡に
仏像が取り付けられたもので、
かつては神仏がいっしょに
まつられていたことの象徴です。先の梵鐘は、円覚寺や建長寺の鐘とならぶ
歴史ある鐘です。
これらは、寺に併設された
観音ミュージアムで見ることができます。また、季節の花や仏像など見どころの多い寺で、
アジサイや紅葉の時期も大人気で
毎年の観光客で賑わうほか、
鎌倉のまちと海が一望のもとに見渡せる
見晴台からの眺めもまた格別です。※1 1本の木から2体の仏像を造ること
※2 神霊が招き寄せられて乗り移るもの
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市長谷3-11-2
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https://maps.app.goo.gl/YfFKeCxx5rnqfJadA
稲村ヶ崎
稲村ヶ崎の特徴
新田義貞の鎌倉攻めの場所として有名で、「七里ヶ浜の磯づたい稲村ヶ崎名将の 剣投ぜし 古戦場」と「鎌倉」(明治43年尋常小学校読本唱歌)にも歌われています。
今、このあたりの海岸は、夏の海水浴やサーフィンの若者でにぎわうもうひとつの顔があります。
出典 鎌倉市役所公式サイト
所在地:神奈川県鎌倉市稲村ガ崎1-19
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鎌倉七切通、鎌倉七口
鎌倉七切通、鎌倉七口の特徴
鎌倉は三方を山に囲まれ、防御上非常に有利な地形をしていましたが、人や物資の行き来には不便であったため、山の稜線を切り開いて道を作りました。これを切通(きりどおし)と呼びます。切通は鎌倉への出入り口として交通上だけでなく戦略上重要な意味があったため、周辺には有力者の邸宅などが置かれていました。
鎌倉とその外を結ぶ切通のうち主なものを「鎌倉七切通(かまくらななきりどおし)」または「鎌倉七口(かまくらななくち)」と呼びます。
防衛拠点としての切通には、「切岸(きりぎし)」といわれる山の斜面を垂直に削り取って人工的な崖にしたものや、「平場(ひらば)」といわれる山頂や山腹に造られた平らな場所などがあります。道幅は馬がやっと通れるほど狭くなっているところもあります。
また、鎌倉市内にある切通には「鎌倉七切通」に数えられていないものもあります。
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
名越切通
鎌倉から三浦半島方面へと通じ、東京湾を渡ってその先の安房(あわ:現在の千葉県南部)に渡る交通路として開削された切通です。現在の名越トンネルの上を通っている道で険しい難路であったために古くは難越(なごし)と呼ばれそこから「なごえ」の名がついたといわれています。国指定史跡です。切り開かれた時期は不明ですが『吾妻鏡(あずまかがみ)』の天福元年(1233年)8月の条に「名越坂」の記述があることからそれ以前に開通していたものと考えられています。当時の面影をよく残した切通で、北方の屋根にある「まんだら堂やぐら群」(逗子市)には、多くのやぐらや石塔が残されています。また、日蓮ゆかりの法性寺(逗子市)のある山腹には鎌倉時代以降に石切が行われ段状に岩が削り取られた300メートルにわたるお猿畠とも呼ばれる大切岸(おおきりぎし)があります。三浦一族の居城衣笠城(きぬがさじょう)に通じる要路でもあり、鎌倉防衛の重要拠点でした。
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市大町~逗子市小坪
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朝夷奈切通
鎌倉七切通のなかで古道の面影をもっとも良く残した国指定史跡です。鎌倉と六浦(横浜市金沢区)を結ぶ切通のため「六浦口」とも呼ばれ、鎌倉の東側の守備の拠点であったと考えられています。和田義盛の三男で豪傑だった朝夷奈三郎義秀が一夜で切り開いたという伝説からこの名が付いたとされますが『吾妻鏡』には仁治元年(1240年)に造営が決定され、その翌年に三代執権北条泰時自らが監督して工事したと記されています。鎌倉へ様々な物資、なかでも塩を運ぶための重要な交通路でした。
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市十二所~横浜市金沢区朝比奈町
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巨福呂坂
青梅聖天社の前から山の尾根を越え、建長寺の前へいたる道でした。今は小袋坂と書きますが昔は巨福呂坂、巨福路坂、巨福礼坂とも書かれていました。この道は、現在は通り抜け出来ませんが江戸時代の庚申塔や道祖神が残っています。国指定史跡です。鎌倉時代、この道は大変急で交通が不便だったため、鎌倉幕府の三代執権北条泰時が通行しやすくするように道の造営を命じたと『吾妻鏡』に記されています。また、新田義貞の鎌倉攻めでは、堀口貞満を大将とする軍がここを破って鎌倉に攻め入りました。鶴岡八幡宮西側の県立近代美術館別館の前から北鎌倉へ抜ける現在の道は、明治19年(1886年)に開かれたものです。
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市雪ノ下
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亀ヶ谷坂
扇ガ谷と山ノ内を結ぶ道でその先の武蔵(むさし:現在の東京・埼玉ほぼ全域に神奈川県東部を含めた地域)に通じる要路でした。現在でも生活要路として使用されている国指定史跡です。今も急な坂道ですが昔はもっと急な坂道だったようで、建長寺の大覚池にいた亀がこの坂を上ったところ急坂のために途中で引き返したあるいはひっくり返ったことから亀返坂(かめかえりざか)とも言われるようになったと伝えられています。また、この坂の北側は延寿堂谷(えんじゅどうがやつ)といい昔、建長寺の僧たちが体を悪くした際に療養した延寿堂があったためこの谷の名がついたといわれています。
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市山ノ内~扇ガ谷3丁目
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仮粧坂
扇ガ谷、佐助から梶原、藤沢方面に抜け、その先は武蔵方面へつながる道で、今も昔の面影を残している国指定史跡です。書物により化粧・気生・気和飛など
表記が異なります。その名の由来は、平家の首をここで化粧して首実験したから、このあたりに娼家があり化粧した女性たちがいたから、辺りの樹木が勢いよく生い茂っていたので「木生え/気勢(きはえ)」といわれていたからなど諸説あります。『吾妻鏡』建長3(1251)年12月3日条には「気和飛(けわひ)坂」という記載もあります。この険しい坂道は、元弘3年(1333年)5月、新田義貞が幕府軍を破った鎌倉攻めの際に軍の主力を向けたので激戦地となり、それ以降も様々な戦いの舞台となりました。足元が悪く、滑りやすいところもあるので、十分注意して歩きましょう。坂を上ると源氏山公園です。
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市扇ガ谷4丁目
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大仏切通
長谷から常盤を経て藤沢方面に抜ける道であり、狭く急峻な古道の様子がよく残されている国指定史跡です。道の両側に高い絶壁のような苔むした崖が切り立っている険しい山道で、江戸時代から明治時代にかけて何度か整備されてきました。常盤側入口付近の一段高くなった崖にはやぐらがいくつかあり、やぐらの中には五輪塔などもありました。また、このあたりに「東坂(ひがしざか)」「仲の坂(なかのさか)」と呼ぶところがありますが、いずれも大仏切通へ抜ける道の坂の名からつけられたようです。
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市常盤・長谷四丁目・笛田六丁目
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極楽寺切通
坂ノ下から極楽寺、七里ガ浜、片瀬方面へ抜ける道となっており、鎌倉・京都往還の重要な出入口でした。極楽寺の門前まで続く坂道は「極楽寺坂」とも呼ばれており、極楽寺の開山忍性によって切り開かれたと伝えられています。当時の切通は、今の成就院境内の高さのあたりを通る傾斜が急な細い崖道でした。1333年(元弘3年)新田義貞の鎌倉攻めでは、大館宗氏を大将とする新田勢10万人の攻撃に対して、北条方は強固な木戸でこの切通を閉ざし、数万の兵力によってここからの侵入を防ぎました。ここを突破できなかった義貞は、このあと稲村ガ崎から鎌倉に攻め込むこととなります。今では道幅が広く、ずっと掘り下げて傾斜も緩やかになり、車が多く通行する道になりました。
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市極楽寺1-1-5(成就院)付近
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釈迦堂切通し
釈迦堂切通しの特徴
大町釈迦堂口遺跡は、鎌倉時代の寺院の跡と考えられている遺跡です。平成20年度(2008年度)に行われた発掘調査により、鎌倉時代後半以降、丘陵部を切り崩して谷戸を造成し、平場には礎石建物や堀立柱建物等が建てられたほか、周辺の丘陵部には、墓や供養の場として「やぐら」が造られるなど、室町時代に至るまで土地利用が繰り返されたことがわかっています。中世の鎌倉の開発と祭祀信仰のあり方を知るうえで重要な遺跡であることから、平成22年(2010年)に国指定史跡に指定されています(現在非公開)。大町釈迦堂口遺跡の西側には、「釈迦堂切通」と呼ばれるトンネルがあります。トンネルは、明治時代以降に開削されたと考えられています。トンネルに至る道路脇の斜面で崩落の危険があるため、トンネルとその前後の区間は通行ができません。(トンネルには近づけません。)
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市大町6丁目
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明月院 あじさい寺
明月院 あじさい寺の特徴
山ノ内の浄智寺の向かいの谷を
明月谷といいます。
明月院はその地で、いまは廃寺となっている
禅興寺の塔頭(※1)として成立しました。あじさい寺として有名で
境内を埋める数千本のあじさいは明月院ブルーとも言われ、
シーズンには多くの人で賑わいます。1159(平治元)年、平治の乱で戦死した
首藤(山ノ内)俊通の供養として
息子の經俊が明月庵を建てたのがはじまりです。約百年後の1256(康元元)年、
第5代執権北条時頼が出家のために
最明寺を建立。
最明寺は時頼没後に廃絶しましたが、
その息子で第8代執権の時宗が
最明寺跡に禅興寺を創建しました。そして1380(康暦2・天授6)年、
鎌倉公方(※2)の足利氏満から
禅興寺中興の命を受けた
関東管領・上杉憲方が寺院を拡大し、
塔頭も建てました。
この時、明月庵は明月院と改められました。禅興寺は一時期、
関東十刹の一位にまでなりましたが、
明治初年に廃寺となり、
筆頭の支院だった明月院だけが残りました。境内には鎌倉最大のやぐらといわれる
「明月院やぐら」があります。このやぐらは、上杉憲方の墓と伝わり、
壁面に釈迦如来 、多宝如来と思われる像が
浮き彫りされています。
基壇上部には十六羅漢と思われる
浮き彫りも施されていることから
「羅漢洞」とも呼ばれています。本堂奥の裏手に広がる庭園は通常非公開ですが
ハナショウブ開花期と
紅葉期のみ公開されます。※1 禅宗寺院の敷地内にある小寺院や別坊
※2 鎌倉府の長官として関東を支配した足利氏の称
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市山ノ内189
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材木座海岸
材木座海岸の特徴
明治期に海水浴場となり、夏目漱石の『こころ』に描かれて有名になった。源実朝が宋(中国)に渡る計画を立て、大きい船を完成させたが、遠浅のため進水できなかったとも伝えられている。
名称は鎌倉時代に鎌倉七座(米座、相物座、博労座、炭座、材木座、絹座、千朶積座)という商工組合があり、これに由来する。江戸時代には材木座村と内陸側の乱橋(みだればし)村に分かれていたが、のちに合併して大字「乱橋材木座」となり、これが住居表示に伴い材木座一丁目-六丁目となった。
2013年には鎌倉市が海水浴場の命名権を売りに出し、『鳩サブレー』で知られる地元の菓子店・豊島屋が10年契約で権利を購入したが、結局名称変更を行わず従来の名称を維持している。
出典 材木座海岸公式サイト
所在地:神奈川県鎌倉市材木座5丁目
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由比ヶ浜
由比ヶ浜の特徴
由比ヶ浜は、もとは霊山ヶ崎(稲村ヶ崎)から材木座の飯島までの全長3.2kmの海岸の総称だが、今では稲瀬川の西のあたりを坂ノ下海岸、稲瀬川と滑川の間を由比ヶ浜海岸、滑川から東を材木座海岸と呼んでいる。
名前の由来は、その昔、由井郷内にあったからとも、「結」という相互に助け合う組合のような組織の名からきているともいわれ、古くは「由井」「湯井」などとも書かれていました。鎌倉時代には前浜とも呼ばれ、多くの家も浜に建ち、また小笠懸や流鏑馬、犬追物など武技の修練場としても使われていた。
将軍 源頼朝が走湯山(伊豆山神社)・箱根山・三嶋社の三社へ参詣する「二所詣」に出発するときには、必ずこの由比ヶ浜で身を清めたといわれるほか、1993(建久4)年にこの浜で行われた鶴岡八幡宮の最も大切な行事である「放生会」では、源頼朝が鳥獣の供養をするために鶴を放したという神聖な宗教儀式の場ともなっていた。その一方で、1180(治承4)年の三浦義澄と畠山重忠の対陣や、1213(建保元)年の和田義盛一族が滅亡し、この浜で首実検が行われたという合戦、1333(元弘3)年の新田義貞の鎌倉攻めなどの古戦場でもあった。
1889(明治22)年に横須賀線が開通してからは、保養地や高級別荘地として、また観光地や海水浴場として人気が高まり、夏の由比ヶ浜はのちに「海の銀座」といわれるほど海水浴客でにぎわい、リゾート地として発展していきました。今も夏には海水浴場としてにぎわいを見せている。
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:鎌倉市由比ガ浜
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https://maps.app.goo.gl/xSffjwCLSddXpcQq9
七里ヶ浜
七里ヶ浜の特徴
日本の渚100選の一つ。四季を問わずヨットやウィンドサーフィンを楽しむ若者の姿があり活気のある海岸で全長約4km。海岸の状態から海水浴には適さない。
出典 鎌倉市観光協会公式サイト
所在地:神奈川県鎌倉市七里ガ浜東2丁目1 七里ガ浜
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神奈川県立近代美術館鎌倉文華館鶴岡ミュージアム
神奈川県立近代美術館鎌倉文華館鶴岡ミュージアムの特徴
概要
当館の建築は、1951年に開館した神奈川県立近代美術館の旧鎌倉館を継承したものです。1949年6月、当時の神奈川県知事であった内山岩太郎のもとに神奈川県在住の美術家や学者から美術館を要望する声があがり、「神奈川県美術家懇話会」が設立されます。用地が検討された結果、鶴岡八幡宮の境内に建設されることになり、1951年11月、建築家・坂倉準三の設計で日本初の公立近代美術館として神奈川県立近代美術館は開館しました。開館から65年間にわたる鎌倉館での活動において開催された展覧会は525本を数えましたが、土地の借地契約満了に伴い2016年1月31日をもって旧館での展覧会活動は終了し、同年3月31日に閉館。その後、旧館は神奈川県指定重要文化財(建造物)に指定され、神奈川県から鶴岡八幡宮に土地の返還と合わせて無償譲渡された後、2019年6月、新しい使命をもった鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムとして開館、2020年末には建物が国の重要文化財に指定されました。
建築家・坂倉準三(1901-1969)
岐阜県に生まれる。東京帝国大学(現・東京大学)で美術史を学んだのち1929年に渡仏。20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエに師事し、1937年のパリ万国博覧会で日本館の設計を手がけて建築部門のグランプリを受賞するなど国際的に高い評価を受けました。
ミュージアムの理念
鶴岡八幡宮の歴史を軸に、鎌倉の魅力を紹介する季節展示や一つのテーマを掘り下げた特別展を行い、鎌倉の新たな文化発信拠点を目指します。
出典 神奈川県立近代美術館鎌倉文華館鶴岡ミュージアム公式サイト
所在地:神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1−53
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