鎌倉市はこんなに素敵!神奈川県鎌倉市の人気観光スポット 名所 名物 名店 グルメ お土産 ギフト 鎌倉市の魅力

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目次

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イギーくん
イギーくん

ねえねえボンゾくん、こんど神奈川県の鎌倉市に行くんだけど、どんな特徴や魅力があるところなのかなあ?鎌倉市についていろいろ教えてよ!特に美味しいものが知りたいなあ!

ボンゾくん
ボンゾくん

鎌倉市には素敵なところや有名なもの、美味しいものがたくさんあるよ!鶴岡八幡宮、神奈川県立近代美術館、鎌倉五山 建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺、銭洗弁天宇賀福神社、高徳院の鎌倉大仏、長谷寺、稲村ヶ崎、鎌倉七切通、鎌倉七口、釈迦堂切通し、明月院 あじさい寺、湘南海岸 材木座海岸・由比ヶ浜・七里ヶ浜、鎌倉彫、鎌倉丼、しらす丼、たたみいわし、しらすの沖漬け、豊島屋の鳩サブレー、建長寺が由来と言われるけんちん汁、日本初のサンドイッチ駅弁 大船軒サンドウィッチ、大船駅の駅弁 大船軒の鯵の押し寿司、かまくらカスター、鎌倉野菜、鎌倉ハム富岡商会なんかがおすすめだね。それじゃあイギーくんと一緒に鎌倉市のこと、詳しく調べてみようね!

鎌倉市について

鎌倉市の特徴、地勢、歴史

歴史

鎌倉は、日本における古代から中世への転換期において源頼朝をリーダーとする武家が、日本で初めての武家政権を樹立し、それまでの貴族支配に替わる武家の支配を築いた場所です。幕府を開いた頼朝は、幕府の組織を整えるとともに都市づくりを開始しました。都市づくりがほぼ完成した1230年ころになると、幕府は全盛期を迎え、鎌倉は政治、軍事、外交、文化などあらゆる面で日本の中心地となりました。当時の築港である和賀江島を通じて中国の宋や元との交易が盛んに行われ、禅宗、禅宗様建築、仏像彫刻、彫漆など様々な中国文化がもたらされました。それらは長い年月のなかで守り続けられ、今日でも中世の社会を支えた繁栄の歴史と華やかな文化を伝えています。

鎌倉の歴史は古い

旧石器時代の石器が常楽寺(じょうらくじ)裏手の粟船山(あわふねやま)で発掘されており、鎌倉の地に、最初に人が住んだのは、今から1万年以上前の旧石器時代のころと思われます。
縄文時代、弥生時代・古墳時代の遺跡・遺物も見つかっており、鎌倉の歴史・文化の古さが感じられます。

源氏とのつながり

平安時代に相模守(さがみのかみ)だった源頼義(みなもとのよりよし)が戦で勝利した際に源氏の氏神(うじがみ)である京都の石清水八幡宮(いわしみずはち まんぐう)を勧請(かんじょう=神仏の分霊を他の場所にもまつること)し、1063年(康平6年)鶴岡八幡宮(元八幡)の社殿を造営しました。
また頼義の子、義家(よしいえ)は1081年(永保元年)八幡宮の修理を行ったともいわれ、1145年(天養2年)には頼朝の父、義朝(よしとも)が寿福寺(じゅふくじ)のあたりに住んでいたそうです。
このように源頼義以来、源氏と鎌倉は深いつながりを持っていたようです。

鎌倉幕府(1192~1333)

12世紀末、源頼朝は源平の合戦で平氏を滅ぼし、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、鎌倉に幕府を開きました。初の武士による政治がこの時から始まり、19世紀中ごろまで続く武家政権の基盤が作られました。 幕府を開いた頼朝は、幕府の組織を整えるとともに都市づくりを開始、都市づくりがほぼ完成した1230年ころになると、幕府は全盛期を迎え、鎌倉は政治、軍事、外交、文化などあらゆる面で日本の中心地となりました。
源氏が3代で絶えた後も、頼朝の妻政子の実家だった北条氏が実権をにぎり、その下で、京都をしのぐ事実上の首府でした。最盛期には3万人もの人口を数えたといわれています。
経済の発展に伴って、当時の築港である和賀江島(わかえじま)を通じて中国の宋や元との交易も盛んに行われ、禅宗、禅宗様建築、仏像彫刻、彫漆など様々な中国文化がもたらされました。
大仏の造立、建長寺や円覚寺など禅寺の建立が盛んだったのもこのころです。

幕府滅亡

幕府は1333年(元弘3年)に新田義貞(にったよしさだ)により滅ぼされました。力のある武士の間で権力をめぐって戦いが続いた後、足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都に室町幕府を開きました。
鎌倉には東国10か国を支配する鎌倉府が置かれ、それなりのにぎわいは保たれていたそうです。

鎌倉の衰退

室町幕府と鎌倉府が対立。1455年(康正元年)、戦いに敗れた鎌倉府のリーダー足利成氏(あしかがしげうじ)は下総国(茨城県)古河に逃げ、鎌倉は急速に活気をなくし、農業と漁業の村になってしまいました。

江戸中期から「観光地化」

江戸時代に入ると社寺は復興していきます。
鎌倉は参拝客が訪れる半農半漁の門前町(もんぜんまち=中世末以降の寺院の門前に発達した町)になっていました。
また、17世紀後半、徳川光圀(とくがわみつくに)が「新編鎌倉志」を編んだこともあり、江の島の景色とともに、史跡めぐりを楽しむ江戸の町人も増えていきました。
江戸時代の後半には鎌倉図絵なども多く出回るようになり、鎌倉の「観光地化」は既にこの頃からはじまっていたようです。

横須賀線開通

1889年に横須賀線が開通すると、鎌倉は再びモダンな人たちの海水浴場として、別荘地や住宅地として、注目されるようになります。温暖な気候と恵まれた自然、歴史と文化の伝統を愛する人々は多く、昭和に入って作家や文人たちが次々に移り住んで「鎌倉文士」という言葉さえ生まれました。
第二次大戦の戦争の被害にほとんどあわなかったために、木々の緑に囲まれた落ち着いた街が残り、戦後ますます人々が訪れるようになりました。

関東大震災

1923年(大正12年)9月1日に関東地方南部を震度8クラスの大地震が襲いました。死者・行方不明14万2千8百名、全壊建物12万8千棟、全焼建物44万7千棟という大災害がもたらされました。

近代

東京から電車で1時間ほどの鎌倉は、1千年の歴史と文化、自然、そして、時代を先取りした新しいセンスを味わわせてくれる古都として、年間2千万人もの来訪者で賑わっています。

出典 鎌倉市公式サイト

鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮の特徴

武家社会が誕生した鎌倉時代。
かつて、鎌倉の地は国の中心でした。
その当時、「鎌倉の守り神」、「武士の守り神」として人々の精神のよりどころとなっていたのが鶴岡八幡宮です。この場所を起点に、鎌倉では今に残る多くの歴史や文化が生まれ、武士の都が栄えていきました。
ご鎮座800年余、鎌倉の文化の起点として、鎌倉と共に歩みを進めてまいります。

武士の都・鎌倉の文化の起点

鶴岡八幡宮は鎌倉幕府と共に始まり、今日まで、鎌倉の発展を見守り、支えてきました。
この場所から、多くの歴史の物語や、今に受け継がれる伝統文化が生まれました。
「武士の都・鎌倉の文化の起点」とも言える鶴岡八幡宮の由緒を通して、歴史や文化、鎌倉の地についてご案内いたします。

武家社会の起点

鶴岡八幡宮の始まり

始まりは、鎌倉幕府を築いた源頼朝公の祖先源頼義が、京都の石清水八幡宮を勧請(神様の御分霊を他の地に還し祀ること)したことです。頼義は石清水八幡宮を篤く信仰しており、源氏の氏神として八幡神を鎌倉の由比ヶ浜辺に祀りました。
その後、源頼朝公が現在の地にお還しし、鶴岡八幡宮の基礎を造りました。

東国社会の中心的存在へ

源頼朝公は鶴岡八幡宮を篤く崇敬しておりました。
治承4年(1180年)、源頼朝公が初の武家政権である鎌倉幕府の拠点を鎌倉の地に構え、同年に先祖ゆかりの八幡宮を現在の場所に遷し祀ります。幕府、鎌倉、ひいては東国社会の守護神として篤い崇敬の誠を寄せたのです。
さらに、幕府の重要祭事として、放生会や流鏑馬、相撲、舞楽など今日に継承される祭事を境内でとり行いました。
鶴岡八幡宮は東国社会の精神的中心、社会的中心だったのです。

武運の神『八幡神』

八幡神を祀る神社は、全国に4万社以上あると言われています。古くより源氏の氏神とされ、「武運の神」としても全国で信仰されました。
鶴岡八幡宮では、「応神天皇」、「神功皇后」、「比売神」の三柱の神様を御祭神としてお祀りしております。
応神天皇は第十五代の天皇であり、父は仲哀天皇、母は神功皇后となります。元明天皇の和同五年に現在の宇佐神宮にお祀りされ、その後清和天皇の御代に石清水八幡宮に勧請され、後白河法皇の建久二年に当宮にお祀りされました。造船を奨め、大陸の文化を盛んに取り入れるなどの功績があります。
神功皇后は仲哀天皇の皇后であり、亡くなられた仲哀天皇のご遺志を継ぎ、熊襲征伐や三韓征伐を達成し、応神天皇が即位するまでの間、政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれています。

鎌倉文化の起点

今に残る武家文化 「流鏑馬」の発祥

「流鏑馬神事」とは、一般的には武士が馬で駆けながら、弓矢で3つの的を射抜くことによって年占をしたり、当たった的や矢をご守護として頂く神事です。
鶴岡八幡宮の流鏑馬神事は、源頼朝公が天下泰平・国家安穏の祈願し、鎌倉時代に催されたのが始まりです。年に1度の一大行事で、多くの人々の前で御家人たちが御神前で弓馬の技を披露する晴れの場でありました。
今日でも、9月の例大祭に於て「流鏑馬神事」として、鎌倉武士さながら狩装束に身を包み、神事が執り行われております。

国宝に因む
「破魔矢」の発祥

鶴岡八幡宮の初詣では、魔除けの縁起物「破魔矢」を手にした多くの参拝者を見かけます。授与される破魔矢は、源頼義が石清水八幡宮から勧請した際に賜った国宝「黒漆矢」に因んで作られたとされています。

仏教思想との交わり
受け継がれた「放生会」

かつて、八幡神は仏が姿を変えて現れたとする考えが進みました。この仏教的思想を取り入れ、源頼朝公によって始められたのが「放生会」です。殺生禁断に基づき、捕らえた生き物を放ち功徳をほどこす法会です。その期になると東国一帯に殺生禁断の命が出されるほど、幕府あげての一大神事でありました。
現在は、放生会が執り行われた旧暦8月15日に当たる、9月14日から16日までの3日間、一年を通して最も重い祭事である「例大祭」として、以来絶えることなく800年の歴史と伝統が伝えられております。
近年には、生命の尊さや季節に対する感性を守り伝えようと、例大祭で「鈴虫放生祭」が始められました。

都市鎌倉の起点

まちづくりの中心
参道「若宮大路」

由比ヶ浜海岸より八幡宮へ一直線に延びるおよそ2kmの参道・若宮大路。京都の朱雀大路になぞらえ、源頼朝公が鎌倉の街づくりの第一歩として、また、妻・北条政子の安産を祈願して、頼朝公自らの指揮のもと、御家人たちが土石を運んで築造したと伝えられています。今でも多くの建物が立ち並ぶように、鎌倉の中心軸となり都市が発達していきました。

鎌倉の移り変わり

鎌倉幕府が終焉を迎えると鎌倉の地は活気を失います。しかし、武家政権発祥の地としての信仰は篤く、江戸時代には徳川家康が鶴岡八幡宮を中心に社寺の復興・保護に力を注いだことを機に、鎌倉の観光地化が進みます。明治・大正時代にかけては、川端康成や小林秀雄など鎌倉を好む作家が増え、「鎌倉文士」として多くの文化人が居住、滞在しました。
そして今日では、歴史を継承した街として年間を通じて国内外より多くの方が訪れます。

鎌倉巡りの起点

ゆかりの地を巡る

武家社会の成立を機に、鎌倉の地では多くの歴史の物語が生まれました。
鶴岡八幡宮の周辺には、八幡宮や源頼朝の物語を語り継ぐ史跡が多く残ります。史跡を巡ることで、古都・鎌倉の悠久の時を辿ることができるでしょう。

出典 鶴岡八幡宮公式サイト

所在地:神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31

地図↓

鶴岡八幡宮 · 〒248-8588 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1−31
★★★★☆ · 神社

神奈川県立近代美術館

神奈川県立近代美術館の特徴

神奈川県立近代美術館は、日本で最初の公立近代美術館として、1951年に開館して以来、つねに美術館はどうあるべきかを考えながら国内での先導的な役割を担って活動してきました。時代と世界に向けて広い視野をもつこと、変化する社会の要請を見極めること、美術館が拠って立つ地域との結びつきを豊かにすること、歴史の中に今日的な課題を見出すこと、そして美術館の独自性と主体性を失わないこと。そうした事柄をいつも念頭において経験を積み、これからの活動を探っています。
2016年度からは、葉山館、鎌倉別館と略称している二つの建物でそれぞれ一年に数回の展覧会を開催しています。展覧会とならんでさまざまな教育普及活動のプログラムを組み、美術館を多様なかたちで楽しめるよう心がけています。美術館が誰にでも親しめ、快適な場所であり続けられるように、そのうえ、何かが発見できるところであるように、それが神奈川県立近代美術館の目指すところです。

出典 神奈川県立近代美術館公式サイト

神奈川県立近代美術館 葉山

所在地:神奈川県三浦郡葉山町一色2208-1

地図↓

神奈川県立近代美術館 葉山館 · 〒240-0111 神奈川県三浦郡葉山町一色2208−1
★★★★☆ · 美術館

神奈川県立近代美術館 鎌倉別館

所在地:神奈川県鎌倉市雪ノ下2-8-1

地図↓

神奈川県立近代美術館 鎌倉別館 · 〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目8−1 神奈川県立近代美術館鎌倉別館
★★★★☆ · 現代美術館

鎌倉五山

鎌倉五山の特徴

五山制度とは各寺の格を定めるもので、官が任命した住持(住職)を順次上位の寺へと昇任させていくという中国の制度です。北条氏が中国にならってはじめたとされています。

初めは建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺などの鎌倉の主な禅刹が五山と呼ばれていましたが、鎌倉幕府が滅びたのちに京都を中心とする順位が定められ、京都の南禅寺、東福寺、建仁寺と鎌倉の建長寺、円覚寺で五山とされた時代もありました。その後、1386(至徳3)年に足利義満が改定し、現在の鎌倉五山・京五山が定められました。
​※両五山の上に京都の南禅寺を置く

鎌倉五山第一位 建長寺
鎌倉五山第二位 円覚寺
鎌倉五山第三位 寿福寺
鎌倉五山第四位 浄智寺
鎌倉五山第五位 浄妙寺

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

建長寺

建長寺の特徴

正式には巨福山建長興国禅寺といい、
山号は地名の巨福呂から、
寺号は年号からつけられました。

本尊は木造地蔵菩薩坐像。
​​鎌倉五山の第一位、
臨済宗建長寺派の本山です。

1253(建長5)年、
鎌倉幕府第5代執権北条時頼が
中国(宋)の高僧蘭渓道隆を迎えて創建した
日本最初の禅宗専門道場で
幕府と強く結び付きました。

創建当初は中国の径山万寿寺と同じく
主要な建物が一直線に並ぶ
伽藍配置であったといわれますが、
大地震や火災の被害にたびたびあい、
そのつど再建されて、
現在の堂宇(※1)は
ほとんど近世の再建・移築になるものです。

1325(正中2)年と1326(嘉暦元)年には、
建長寺造営再建のため
中国(元)に貿易船を派遣して、
その費用にあてたりしています。

寺宝としては、
蘭渓道隆像(絵画)などの国宝をはじめ
数多くの文化財があり、
中でも1255(建長7)年に
北条時頼がつくらせた梵鐘は、
その美しさが関東第一といわれています。

鎌倉時代の末ころ、
寺のお坊さんその他の人数は
約千人に近い数であったといわれます。

寺で必要とされた米は
1年間で三~四千石(※2)、
年貢米は五千貫(※3)に達していたといわれ、
寺領も莫大なものだったと考えられますが、
確かな史料は残っていません。

塔頭(※4)は49院を数えたといわれますが、
現存しているのは12院です。
西来庵・妙高院・同契院・天源院
正統院・龍峰院・宝珠院・回春院
禅居院・華蔵院・長寿寺・円応寺

また、野菜や豆腐入りのけんちん汁は
ここが発祥といわれているほか、
一番奥にある半僧坊は
天園ハイキングコースへ通じています。

※1 堂、殿堂のこと
※2 30万〜40万升(450〜600トン)
※3 18.75トン
※4 寺院の中にある個別の坊

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市山ノ内8

地図↓

建長寺 · 〒247-8525 神奈川県鎌倉市山ノ内8
★★★★☆ · 仏教寺院

円覚寺

円覚寺の特徴

二度の元寇(文永・弘安の役)で亡くなった
両軍の兵士を弔うために、
1282(弘安5)年、
鎌倉幕府第8代執権北条時宗が
中国(宋)の高僧無学祖元を迎えて
創建した禅宗寺院です。

臨済宗円覚寺派の本山で、鎌倉五山の第二位。
本尊は宝冠釈迦如来坐像。
妙香池、白鷺池などの池があり、
国の名勝に指定されています。

無学祖元は1279(弘安2)年、
時宗に招かれて来日し、
建長寺の住職となりました。
その指導法は懇切丁寧で、時宗をはじめ
多くの鎌倉武士の参禅(※1)を得ました。

1281(弘安4)年の弘安の役に際しては、
時宗の政策にも大きな影響を与えました。

時宗が円覚寺を建てたのは、
帰国しようとしていた無学祖元を
引き止めるためであったともいわれます。

国宝の舎利殿は室町時代の名建築、
大平寺(廃寺)の仏殿を移築したもの。

山門の東から
長い急な石段を登った山の上にある大鐘は、
1301(正安3)年に物部国光によって作られた
鎌倉時代の代表的な名鐘の一つです。
関東地方最大の鐘で、
これもまた国宝に指定されています。

夏目漱石の小説『門』では、
主人公が鎌倉の禅寺を訪ね、
数日、坐禅をするくだりがあります。
その描写は、かつて若き日の漱石が
円覚寺で坐禅をした経験を踏まえたものです。

そのほか、島崎藤村、有島武郎らも
執筆のために訪れるなど、
円覚寺は、多くの文士の創作の舞台、
活動の場となりました。

※1 坐禅して禅を修めること

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市山ノ内409​

地図↓

臨済宗 瑞鹿山 円覚興聖禅寺. (大本山 円覚寺). · 〒247-0062 神奈川県鎌倉市山ノ内409
★★★★☆ · 仏教寺院

寿福寺

寿福寺の特徴

1200(正治2)年、源頼朝の妻・北条政子が頼朝の死後、
頼朝の父である義朝の旧邸跡に
明庵栄西を招いて創建した寺で
13世紀後半になって禅宗の寺院となりました。

本尊は釈迦如来坐像。
その脇には大きな仁王の像があります。
​​鎌倉五山の第三位。

三代将軍実朝もしばしば訪れ、
最盛期には十数か所の塔頭を擁する
大寺であったといいます。

山門から石畳の参道が中門まで続いており、
現在は中門の手前まで拝観できます。

栄西は二度も中国(宋)に渡った
比叡山の高名な僧ですが、
禅密兼修の立場から
中国で学んだ禅を広めようとして
天台宗の比叡山延暦寺から圧力を受け、
59歳で鎌倉に来た栄西を、
源頼家や北条政子、その子源実朝は歓迎しました。

栄西は日本に茶の文化を広めたことでも有名で、
栄西が書いた『喫茶養生記』という本が
寺の宝物になっています。

山門前から左の小径を登ると墓地があり、
明治時代の外務大臣の陸奥宗光 、
俳人の高浜虚子 、
作家の大佛次郎などの墓があります。

墓地の山側にはやぐら(※1)が二つ並び、
一つは政子、一つはその子源実朝の墓だといわれています。
中にはともに供養の五輪塔があります。

実朝のやぐらには唐草のような模様が見られるので、
「からくさやぐら」とか「絵かきやぐら」といわれます。

※1 仏堂または供養、埋葬の場として中世に造られた石窟

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市扇ガ谷1-17-7

地図↓

寿福寺 · 〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17−7
建造物

浄智寺

浄智寺の特徴

1281(弘安4)年、
鎌倉幕府第5代執権北条時頼の子
宗政の菩提を弔うために建てられた
臨済宗円覚寺派の禅宗寺院。

​​苔むした参道の階段と
鐘楼のある山門が印象的な
​鎌倉五山の第四位の寺。

浄智寺創建は円覚寺と同様の時期で、
この頃から14世紀後半(南北朝)にかけてが
鎌倉禅林の盛時です。

開基が北条貞時の次に執権となった
宗政の子・師時でもあり、
1323(元亨3)年に行われた
貞時13 回忌の際には、
参加した僧侶は200人を超え、
建長寺、円覚寺、寿福寺の三寺に次ぐ
規模を誇りました。

しかし現在は、
総門・山門(鐘楼)・庫裏・仏殿(曇華殿)
が残るのみです。
山門は鐘楼を兼ねた珍しいもので、
1340(暦応3)年の銅鐘がおかれています。

仏殿には、室町時代に作られたという
三世仏坐像が安置されています。
(県の重要文化財)

むかって左から
阿弥陀・釈迦・弥勒の各如来で、
それぞれ過去、現在、未来を意味する
といわれています。

仏殿の近くには、鎌倉一の大きさの
コウヤマキやハクウンボク(※1)があり、
ゆたかな緑におおわれた境内は
国の史跡に指定されています。

境内の奥には、岩を削った鎌倉ならではの
やぐらも見ることができます。

やぐらの中には石仏のほか、
鎌倉七福神のひとつである布袋像が
ユーモラスな姿で佇んでいます。

また、小説家・澁澤龍彦の墓があることでも
知られています。

※1 沙羅双樹といわれている

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市山ノ内1402

地図↓

浄智寺 · 〒247-0062 神奈川県鎌倉市山ノ内1402
★★★★☆ · 仏教寺院

浄妙寺

浄妙寺の特徴

1188(文治4)年、
源頼朝の重臣・足利義兼(※1)により、
退耕行勇を開山として創建されたと伝えます。
どっしりとした屋根の本堂が風格を感じさせる
鎌倉五山の第五位。

退耕行勇は鶴岡八幡宮の供僧(※2)で、
北条政子や源実朝にも厚く敬われた高僧です。
鎌倉時代に造られた
「木造退耕禅師坐像」が伝わっており、
国の重要文化財に指定されています。

浄妙寺は、はじめは真言宗の寺で
極楽寺といいました。

しかし、建長寺の開山蘭渓道隆の弟子である
月峯了然が住職となって
臨済宗の禅刹に改められ、
のち正嘉年間(1257-59年)頃に
寺号も浄妙寺と変わりました。

中興開基は足利尊氏の父・貞氏で、
室町時代は鎌倉公方(※3)の菩提寺として
栄えました。

外門・総門・山門・仏殿・法堂
方丈・禅堂・経堂などの伽藍や
多数の塔頭(※4)を持つ大寺院でしたが、
火災などのために徐々に規模が縮小し、
現在は総門・本堂・客殿・庫裏という
たたずまいとなっています。

寺の東の山に鎌足稲荷と呼ばれる
祠があります。

ここは大化の改新の立役者である藤原鎌足が
鹿島神宮に参詣に向かう途上、
夢のお告げに従って
鎌槍(※5)を埋めた場所といわれ、
諸説ある鎌倉の地名の由来の
一つになっています。

※1 北条政子の妹の夫
​※2 神社で仏事や管理を行う僧
​※3 鎌倉府の長官として関東を支配した足利氏の称
​※4 禅宗寺院の敷地内にある小寺院や別坊
​※5 穂先に鎌のような枝刃がついている槍

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市浄明寺3-8-31

地図↓

浄妙寺 · 〒248-0003 神奈川県鎌倉市浄明寺3丁目8−31
★★★★☆ · 仏教寺院

銭洗弁天 宇賀福神社

銭洗弁天 宇賀福神社の特徴

佐助ヶ谷の最奥に三方を尾根に囲まれ、
古くから隠里と呼ばれ、
福神の住むところといわれた凹地があります。
銭洗弁財天宇賀福神社は
そこに鎮座しています。

銭洗弁天のもとは
扇ヶ谷の八坂神社の末社でしたが
1970年に独立し、
名を銭洗弁財天宇賀福神社としました。
御神体は、体は蛇、頭は人の形をしていて
水の神とされています。

創建のいきさつについては、
次のような話が伝えられています。

平安時代の終わり頃は世の中が乱れ、
そのうえ飢饉が続いて人々の苦しみはひどく、
目も当てられない有様でした。

源頼朝は人々の命を救おうと
日夜神や仏に祈っていましたが、
巳の年の1185(文治元)年、
巳の月、巳の日の夜に、
夢にひとりの老人が現れ、

ここから西北の方に一つの谷があり、
きれいな泉が岩の間から湧き出ている。
今後この水を汲んで絶えず用い、
神仏を供養せよ。
自分はこのかくれ里の主の宇賀福神である。
と言って姿を消しました。

夢からさめた頼朝がすぐ家来をやって
その場所を探らせると、
確かに、岩の間から
綺麗な水が湧き出ているのが見つかりました。

頼朝はさっそく石工に命じて穴ぐらを掘らせ、
社を建てて宇賀福神をおまつりし、
毎日その水を運んで供えたところ、
天下は次第に治まり、
人々は安楽な日々を送るようになった
といいます。

その後、第5代執権北条時頼もこの神を敬い、
人々に参拝させました。

そして「銭をこの水で洗い清めれば
福銭となり、一家は栄え、
子孫は長く安らかになるであろう」と、
自ら持っていた銭を巳の日に洗って祈ると、
人々もそれにならって
銭を洗い清めるようになりました。

いつしか銭洗いの水と呼ばれるようになり、
今でもこの水でお金を洗う人が絶えません。
​(銭洗水は鎌倉五名水の一つです)

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市佐助2-25-16

地図↓

銭洗弁天宇賀福神社 · 〒248-0017 神奈川県鎌倉市佐助2丁目25−16
建造物

高徳院 鎌倉大仏

高徳院 鎌倉大仏の特徴

武家政権と民衆の安寧を願ってつくられた
金銅の鋳造仏です。
​つくられた当時の姿をほぼ保っているものの、
1252(建長4)年に鋳造が開始されたこと以外は
謎につつまれています。

仏像としては
鎌倉で唯一の国宝に指定されています。

重量は約121t。
高さ(座長)は11.31m、
台座も含めると13.35mあります。

『吾妻鏡』では
1238(暦仁元)年に大仏堂事始とあり、
勧進(※1)下知(※2)されていることから、
幕府の力によってつくられたと考えられます。

最初につくられたのは木造の大仏で、
1243(寛元元)年に
大仏と大仏殿が竣工しています。

10年ほど後に
金銅の大仏に造り替えられたといわれますが、
確かなことはわかっていません。
​胎内に入ると高度な鋳造技術がうかがえます。

もともとは大仏を覆う
大仏殿内に安置されていましたが、
鎌倉幕府が滅びたあとに
台風や大津波により大仏殿が倒壊し、
1498(明応7)年頃には
露坐(※3)となったと考えられます。

境内のあちらこちらに残る礎石から、
大仏殿の規模が想像できます。

鎌倉大仏は大きいだけでなく、
美しいことでも知られます。

弓なりになっている鼻の線からつづくまゆげ、
水平な目、微笑をたたえた口には、
ギリシャ彫刻的要素も認められます。

大仏のところどころに金箔が残っているのを
わずかに見ることができますが、
つくられた当時は、
これが全部に施されていたといいます。

後光山の“緑の後光”を背にして、
やや前かがみに佇むその美しい姿は、
多くの文学作品の題材となってきました。

歌人の与謝野晶子は
かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は
美男におはす 夏木立かな
と詠みました。

その歌碑が高徳院境内にあるほか、
3基の文学碑が立っています。

※1 社寺・仏像の建立・修繕などのために金品を募ること
※2 上から下へ指図すること
​※3 屋根のない所に座ること

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市長谷4-2-28

地図↓

鎌倉大仏殿高徳院 · 〒248-0016 神奈川県鎌倉市長谷4丁目2−28
★★★★☆ · 仏教寺院

長谷寺

長谷寺の特徴

鎌倉では杉本寺に次いで古い寺とされ
736(天平8)年に創建した
と伝えられている長谷寺。

もともとは新長谷寺といい、
奈良の長谷寺を本とし
創建年も奈良の長谷寺にならった
といわれます。

実際の創建年次は不詳ですが、現存資料中に
1264(文永元)年の梵鐘銘があることから
13世紀には創立されていたことがわかります。

本尊の十一面観音菩薩立像は
奈良の長谷寺の像と
同じクスノキから彫られたといわれ
一木二体(※1)の像と伝えられます。
高さ9.18mある像高は
木造の仏像では日本最大級です。

坂東三十三ヶ所観音霊場の第四番札所として
江戸期以来参詣者が多く
特に観音さまの縁日である毎月18日には
賑わいをみせます。

また、12月18日に開かれる「歳の市」では
今も参道にだるまや熊手、神棚など
正月を迎えるための縁起物をあつかう露店が
軒を連ねます。

この日は年に一度、観音さまの足に直接触れる
「御足参り祈願」も行われます。

本尊以外にも長谷寺には
多くの宝物が伝わっています。

御前立の十一面観音菩薩立像は
右手に錫杖を持つ長谷寺特有の形式で、
かつては本尊の大観音の前に立っていました。

三十三応現身像は観音菩薩の
33の変化の姿すべてが揃った群像です。

懸仏は神の依代(※2)を表す鏡に
仏像が取り付けられたもので、
かつては神仏がいっしょに
まつられていたことの象徴です。

先の梵鐘は、円覚寺や建長寺の鐘とならぶ
歴史ある鐘です。

これらは、寺に併設された
観音ミュージアムで見ることができます。

また、季節の花や仏像など見どころの多い寺で、
アジサイや紅葉の時期も大人気で
毎年の観光客で賑わうほか、
鎌倉のまちと海が一望のもとに見渡せる
見晴台からの眺めもまた格別です。

※1 1本の木から2体の仏像を造ること
​※2 神霊が招き寄せられて乗り移るもの

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市長谷3-11-2

地図↓

長谷寺 · 〒248-0016 神奈川県鎌倉市長谷3丁目11−2
★★★★☆ · 仏教寺院

稲村ヶ崎

稲村ヶ崎の特徴

新田義貞の鎌倉攻めの場所として有名で、「七里ヶ浜の磯づたい稲村ヶ崎名将の 剣投ぜし 古戦場」と「鎌倉」(明治43年尋常小学校読本唱歌)にも歌われています。
今、このあたりの海岸は、夏の海水浴やサーフィンの若者でにぎわうもうひとつの顔があります。

出典 鎌倉市役所公式サイト

所在地:神奈川県鎌倉市稲村ガ崎1-19

地図↓

稲村ガ崎 · 〒248-0024 神奈川県鎌倉市
〒248-0024 神奈川県鎌倉市

鎌倉七切通、鎌倉七口

鎌倉七切通、鎌倉七口の特徴

鎌倉は三方を山に囲まれ、防御上非常に有利な地形をしていましたが、人や物資の行き来には不便であったため、山の稜線を切り開いて道を作りました。これを切通(きりどおし)と呼びます。切通は鎌倉への出入り口として交通上だけでなく戦略上重要な意味があったため、周辺には有力者の邸宅などが置かれていました。

鎌倉とその外を結ぶ切通のうち主なものを「鎌倉七切通(かまくらななきりどおし)」または「鎌倉七口(かまくらななくち)」と呼びます。

防衛拠点としての切通には、「切岸(きりぎし)」といわれる山の斜面を垂直に削り取って人工的な崖にしたものや、「平場(ひらば)」といわれる山頂や山腹に造られた平らな場所などがあります。道幅は馬がやっと通れるほど狭くなっているところもあります。

また、鎌倉市内にある切通には「鎌倉七切通」に数えられていないものもあります。

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

名越切通

鎌倉から三浦半島方面へと通じ、
東京湾を渡ってその先の
安房(あわ:現在の千葉県南部)に渡る
交通路として開削された切通です。

現在の名越トンネルの上を通っている道で
険しい難路であったために
古くは難越(なごし)と呼ばれ
そこから「なごえ」の名がついた
といわれています。国指定史跡です。

​切り開かれた時期は不明ですが
『吾妻鏡(あずまかがみ)』の
天福元年(1233年)8月の条に
「名越坂」の記述があることから
それ以前に開通していたものと
考えられています。

当時の面影をよく残した切通で、
北方の屋根にある
「まんだら堂やぐら群」(逗子市)には、
多くのやぐらや石塔が残されています。

また、日蓮ゆかりの
法性寺(逗子市)のある山腹には
鎌倉時代以降に石切が行われ
段状に岩が削り取られた
300メートルにわたるお猿畠とも呼ばれる
大切岸(おおきりぎし)があります。

三浦一族の居城
衣笠城(きぬがさじょう)に通じる
要路でもあり、
鎌倉防衛の重要拠点でした。

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市大町~逗子市小坪

地図↓

名越切通・第1切通 · 〒249-0008 神奈川県逗子市小坪
★★★★☆ · 史跡

朝夷奈切通

鎌倉七切通のなかで
古道の面影をもっとも良く残した
国指定史跡です。

鎌倉と六浦(横浜市金沢区)を結ぶ切通のため
「六浦口」とも呼ばれ、
鎌倉の東側の守備の拠点であった
と考えられています。

和田義盛の三男で豪傑だった
朝夷奈三郎義秀が
一夜で切り開いたという伝説から
この名が付いたとされますが
『吾妻鏡』には
仁治元年(1240年)に造営が決定され、
その翌年に三代執権北条泰時自らが
監督して工事した
と記されています。

鎌倉へ様々な物資、
なかでも塩を運ぶための重要な交通路でした。

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市十二所~横浜市金沢区朝比奈町

地図↓

朝夷奈切通 鎌倉市十二所側入口 · 〒248-0001 神奈川県鎌倉市十二所
★★★★☆ · 史跡

巨福呂坂

青梅聖天社の前から山の尾根を越え、
建長寺の前へいたる道でした。
今は小袋坂と書きますが
昔は巨福呂坂、巨福路坂、巨福礼坂とも
書かれていました。

この道は、現在は通り抜け出来ませんが
江戸時代の庚申塔や道祖神が残っています。
国指定史跡です。

鎌倉時代、この道は大変急で
交通が不便だったため、
鎌倉幕府の三代執権北条泰時が
通行しやすくするように道の造営を命じたと
『吾妻鏡』に記されています。

また、新田義貞の鎌倉攻めでは、
堀口貞満を大将とする軍がここを破って
鎌倉に攻め入りました。

鶴岡八幡宮西側の県立近代美術館別館の前から
北鎌倉へ抜ける現在の道は、
明治19年(1886年)に開かれたものです。

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市雪ノ下

地図↓

巨福呂坂切通し · 〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目7−8
★★★★☆ · 史跡

亀ヶ谷坂

扇ガ谷と山ノ内を結ぶ道で
その先の武蔵(むさし:現在の東京・埼玉ほぼ全域に
神奈川県東部を含めた地域)に通じる要路でした。
現在でも生活要路として使用されている
国指定史跡です。

今も急な坂道ですが
昔はもっと急な坂道だったようで、
建長寺の大覚池にいた亀がこの坂を上ったところ
急坂のために途中で引き返した
あるいはひっくり返ったことから
亀返坂(かめかえりざか)とも言われるようになった
と伝えられています。

また、この坂の北側は
延寿堂谷(えんじゅどうがやつ)といい
昔、建長寺の僧たちが
体を悪くした際に療養した延寿堂があったため
この谷の名がついたといわれています。

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市山ノ内~扇ガ谷3丁目

地図↓

亀ケ谷坂切通 · 〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷3丁目
★★★★☆ · 史跡

仮粧坂

扇ガ谷、佐助から梶原、藤沢方面に抜け、
その先は武蔵方面へつながる道で、
今も昔の面影を残している国指定史跡です。

書物により化粧・気生・気和飛など
表記が異なります。

その名の由来は、
平家の首をここで化粧して首実験したから、
このあたりに娼家があり
化粧した女性たちがいたから、
辺りの樹木が勢いよく生い茂っていたので
「木生え/気勢(きはえ)」といわれていたから
など諸説あります。

『吾妻鏡』建長3(1251)年12月3日条には
「気和飛(けわひ)坂」という記載もあります。

この険しい坂道は、
元弘3年(1333年)5月、
新田義貞が幕府軍を破った鎌倉攻めの際に
軍の主力を向けたので激戦地となり、
それ以降も様々な戦いの舞台となりました。

足元が悪く、滑りやすいところもあるので、
十分注意して歩きましょう。

坂を上ると源氏山公園です。

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市扇ガ谷4丁目

地図↓

仮粧坂切通 · 〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷4丁目14−7
★★★★☆ · 史跡

大仏切通

長谷から常盤を経て
藤沢方面に抜ける道であり、
狭く急峻な古道の様子がよく残されている
国指定史跡です。

道の両側に高い絶壁のような
苔むした崖が切り立っている険しい山道で、
江戸時代から明治時代にかけて
何度か整備されてきました。

常盤側入口付近の一段高くなった崖には
やぐらがいくつかあり、
やぐらの中には五輪塔などもありました。

また、このあたりに
「東坂(ひがしざか)」「仲の坂(なかのさか)」
と呼ぶところがありますが、
いずれも大仏切通へ抜ける道の
坂の名からつけられたようです。

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市常盤・長谷四丁目・笛田六丁目

地図↓

大仏切通 · 〒248-0027 神奈川県鎌倉市笛田6丁目1−9
★★★★☆ · 史跡

極楽寺切通

坂ノ下から極楽寺、七里ガ浜、
片瀬方面へ抜ける道となっており、
鎌倉・京都往還の重要な出入口でした。

極楽寺の門前まで続く坂道は
「極楽寺坂」とも呼ばれており、
極楽寺の開山忍性によって切り開かれた
と伝えられています。

当時の切通は、
今の成就院境内の高さのあたりを通る
傾斜が急な細い崖道でした。

1333年(元弘3年)新田義貞の鎌倉攻めでは、
大館宗氏を大将とする
新田勢10万人の攻撃に対して、
北条方は強固な木戸でこの切通を閉ざし、
数万の兵力によって
ここからの侵入を防ぎました。

ここを突破できなかった義貞は、
このあと稲村ガ崎から
鎌倉に攻め込むこととなります。

今では道幅が広く、
ずっと掘り下げて傾斜も緩やかになり、
車が多く通行する道になりました。

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市極楽寺1-1-5(成就院)付近

地図↓

極楽寺切通 · 〒248-0021 神奈川県鎌倉市坂ノ下23−10
★★★★☆ · 史跡

釈迦堂切通し

釈迦堂切通しの特徴

大町釈迦堂口遺跡は、鎌倉時代の寺院の跡と考えられている遺跡です。

平成20年度(2008年度)に行われた発掘調査により、鎌倉時代後半以降、丘陵部を切り崩して谷戸を造成し、

平場には礎石建物や堀立柱建物等が建てられたほか、周辺の丘陵部には、墓や供養の場として

「やぐら」が造られるなど、室町時代に至るまで土地利用が繰り返されたことがわかっています。

中世の鎌倉の開発と祭祀信仰のあり方を知るうえで重要な遺跡であることから、平成22年(2010年)に国指定史跡に指定されています(現在非公開)。

大町釈迦堂口遺跡の西側には、「釈迦堂切通」と呼ばれるトンネルがあります。トンネルは、明治時代以降に開削されたと考えられています。

トンネルに至る道路脇の斜面で崩落の危険があるため、トンネルとその前後の区間は通行ができません。(トンネルには近づけません。)

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市大町6丁目

地図↓

釈迦堂切通し · 〒248-0007 神奈川県鎌倉市大町6丁目8−38
★★★☆☆ · 史跡

明月院 あじさい寺

明月院 あじさい寺の特徴

山ノ内の浄智寺の向かいの谷を
明月谷といいます。
​明月院はその地で、いまは廃寺となっている
禅興寺の塔頭(※1)として成立しました。​

あじさい寺として有名で
​境内を埋める数千本のあじさいは明月院ブルーとも言われ、
シーズンには多くの人で賑わいます。

1159(平治元)年、平治の乱で戦死した
首藤(山ノ内)俊通の供養として
息子の經俊が明月庵を建てたのがはじまりです。

約百年後の1256(康元元)年、
第5代執権北条時頼が出家のために
最明寺を建立。
最明寺は時頼没後に廃絶しましたが、
その息子で第8代執権の時宗が
最明寺跡に禅興寺を創建しました。

そして1380(康暦2・天授6)年、
鎌倉公方(※2)の足利氏満から
禅興寺中興の命を受けた
関東管領・上杉憲方が寺院を拡大し、
塔頭も建てました。
この時、明月庵は明月院と改められました。

禅興寺は一時期、
関東十刹の一位にまでなりましたが、
明治初年に廃寺となり、
筆頭の支院だった明月院だけが残りました。

境内には鎌倉最大のやぐらといわれる
「明月院やぐら」があります。

このやぐらは、上杉憲方の墓と伝わり、
壁面に釈迦如来 、多宝如来と思われる像が
浮き彫りされています。
基壇上部には十六羅漢と思われる
浮き彫りも施されていることから
「羅漢洞」とも呼ばれています。

本堂奥の裏手に広がる庭園は通常非公開ですが
ハナショウブ開花期と
紅葉期のみ公開されます。

※1 禅宗寺院の敷地内にある小寺院や別坊
​※2 鎌倉府の長官として関東を支配した足利氏の称

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市山ノ内189

地図↓

明月院 · 〒247-0062 神奈川県鎌倉市山ノ内189
★★★★☆ · 仏教寺院

材木座海岸

材木座海岸の特徴

明治期に海水浴場となり、夏目漱石の『こころ』に描かれて有名になった。源実朝が宋(中国)に渡る計画を立て、大きい船を完成させたが、遠浅のため進水できなかったとも伝えられている。
名称は鎌倉時代に鎌倉七座(米座、相物座、博労座、炭座、材木座、絹座、千朶積座)という商工組合があり、これに由来する。江戸時代には材木座村と内陸側の乱橋(みだればし)村に分かれていたが、のちに合併して大字「乱橋材木座」となり、これが住居表示に伴い材木座一丁目-六丁目となった。
2013年には鎌倉市が海水浴場の命名権を売りに出し、『鳩サブレー』で知られる地元の菓子店・豊島屋が10年契約で権利を購入したが、結局名称変更を行わず従来の名称を維持している。

出典 材木座海岸公式サイト

所在地:神奈川県鎌倉市材木座5丁目

地図↓

材木座海岸 · 〒248-0013 神奈川県鎌倉市材木座5丁目
★★★★☆ · 浜

由比ヶ浜

由比ヶ浜の特徴

由比ヶ浜は、もとは霊山ヶ崎(稲村ヶ崎)から材木座の飯島までの全長3.2kmの海岸の総称だが、今では稲瀬川の西のあたりを坂ノ下海岸、稲瀬川と滑川の間を由比ヶ浜海岸、滑川から東を材木座海岸と呼んでいる。

名前の由来は、その昔、由井郷内にあったからとも、「結」という相互に助け合う組合のような組織の名からきているともいわれ、古くは「由井」「湯井」などとも書かれていました。鎌倉時代には前浜とも呼ばれ、多くの家も浜に建ち、また小笠懸や流鏑馬、犬追物など武技の修練場としても使われていた。

将軍 源頼朝が走湯山(伊豆山神社)・箱根山・三嶋社の三社へ参詣する「二所詣」に出発するときには、必ずこの由比ヶ浜で身を清めたといわれるほか、1993(建久4)年にこの浜で行われた鶴岡八幡宮の最も大切な行事である「放生会」では、源頼朝が鳥獣の供養をするために鶴を放したという神聖な宗教儀式の場ともなっていた。その一方で、1180(治承4)年の三浦義澄と畠山重忠の対陣や、1213(建保元)年の和田義盛一族が滅亡し、この浜で首実検が行われたという合戦、1333(元弘3)年の新田義貞の鎌倉攻めなどの古戦場でもあった。

1889(明治22)年に横須賀線が開通してからは、保養地や高級別荘地として、また観光地や海水浴場として人気が高まり、夏の由比ヶ浜はのちに「海の銀座」といわれるほど海水浴客でにぎわい、リゾート地として発展していきました。今も夏には海水浴場としてにぎわいを見せている。

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:鎌倉市由比ガ浜

地図↓

由比ガ浜 · 〒248-0014 神奈川県鎌倉市
〒248-0014 神奈川県鎌倉市

七里ヶ浜

七里ヶ浜の特徴

日本の渚100選の一つ。四季を問わずヨットやウィンドサーフィンを楽しむ若者の姿があり活気のある海岸で全長約4km。海岸の状態から海水浴には適さない。

出典 鎌倉市観光協会公式サイト

所在地:神奈川県鎌倉市七里ガ浜東2丁目1 七里ガ浜

地図↓

七里ヶ浜 · 〒248-0026 神奈川県鎌倉市七里ガ浜東2丁目1 七里ガ浜
★★★★★ · 浜

鎌倉彫

鎌倉彫の特徴

鎌倉彫とは、カツラやイチョウなどの木を用いて木地を成形し、文様を彫り、その上に漆を塗って仕上げた伝統的工芸品です。その始まりは鎌倉時代に仏師が作っていた仏具にさかのぼります。

出典 鎌倉市公式サイト

通販でお取り寄せ出来る鎌倉彫

鎌倉丼

鎌倉丼の特徴

鎌倉丼とは、神奈川県鎌倉市の一部地域の飲食店などで供される、海老を出汁で炊いたものやエビの天ぷら、もしくは海老フライなどを卵で綴じて丼飯の上に載せた、いわゆる丼物の料理である。鶏肉と鶏卵で作る親子丼の鶏肉をエビに変えたもの、もしくはトンカツを卵で綴じて丼飯に載せたカツ丼のカツをエビの天ぷらやエビフライに変えたもの、すなわち何らかの下調理を施したエビを用いた「エビの卵綴じ丼」を想像すれば、概ね外れではない。なお、地方によってはエビフライを玉子で綴じたものは「えびカツ丼」と呼ばれることもある。 鎌倉大仏や長谷観音で有名な長谷の近辺の定食屋や蕎麦屋等で、凡そ1000円前後で食べることができる。

出典 ウィキペディア

しらす丼

しらす丼の特徴

鎌倉市は相模湾で採れた新鮮なしらすの料理を提供する店が多い。

しらす丼は、基本的に飯を盛った丼の上に釜揚げしらすなどを載せ、タレや醤油などを掛けて食べる簡単なもので、卵の黄身や、ねぎ、青シソ、刻み海苔などの薬味を載せて食べることも多い。鮪などを混ぜ込む場合もある。

生しらすを用いる生しらす丼もある。しらすは鮮度が落ちやすく、品質管理の難しさの割に単価が低い。よって、水揚げされたしらすの殆どは加工工場に搬送されるため、生しらす丼は、主に漁港近くの店舗で提供される観光要素が強い。

出典 ウィキペディア

通販でお取り寄せ出来る湘南しらす

たたみいわし

たたみいわしの特徴

たたみいわし(畳鰯)、たたみしらすは、カタクチイワシの稚魚(シラス)を生のまま冷水で洗い、葭簀(よしず)や木枠に貼った目の細かい網で漉いて天日干しにかけ、薄い板状(網状)に広げる加工を施した食品。

酒の肴としても知られるほか、神奈川県の沿岸部の特産品として広く知られる。

出典 ウィキペディア

しらすの沖漬け

しらすの沖漬けの特徴

しらすの沖漬けは、神奈川県湘南地方で漁獲されるしらすによる加工食品。神奈川県しらす船曳網漁業連絡協議会(以下神奈川県しらす協議会)所属のしらす漁師が製造販売している。生しらすを、沖合の漁船上でしょう油、酒、みりんを煮たてた特製タレに漬けて生産される。2011年に考案された。女性が開発に関わった商品やサービスに与えられる「神奈川なでしこブランド」に認定されている。

鎌倉出身の料理研究家矢野ふき子が2011年4月放映のテレビ朝日の食育をテーマとした「学びEye」の取材の裏方として同席した時に考え出したもの。当時のプロデューサーに「生しらすは漁獲した当日しか日持ちのしない地元民だけの食べ物なので、生しらすを朝ごはんのシーンにしてほしい」と依頼を受けた矢野は、生しらすを日持ちさせ、全国に広めたいと考えた。本人は「神奈川なでしこブランド」の認定式で神奈川県の黒岩祐治知事とのトークショーの際、「中学生の時、当時日経流通新聞の編集長だった父が富山県から持ち帰ったホタルイカの沖漬けをヒントに、しらすの沖漬けを思いついた」と語っている。

出典 ウィキペディア

鳩サブレー

鳩サブレーの特徴

豊島屋が明治時代から販売しているサブレー。

それは店を始めて間もない明治30年頃のことでした。ある日、店に訪れた異人さんから、見たことのない大きな楕円形のお菓子をいただきました。それを口にした初代店主は、「なんておいしいお菓子なのだろう」といたく感動し、「これからの日本の子ども達に喜ばれるのはこれだ!」と確信しました。でも、人まねは嫌いだった初代は自分で新しい時代のお菓子を創ろうと思い、その日から試行錯誤の日々が始まりました。

味のポイントがバターだと気づいた初代。しかし、当時はバターなどといったハイカラなものが、簡単に手に入る時代ではありませんでした。横浜の異人館に足を運び、なんとか調達した貴重なバターを使って、試作に明け暮れる毎日でした。原材料の配合比、いわゆるレシピのことを「ワリ」と言いますが、試行錯誤の末、ようやく納得のいく「ワリ」が完成しました。

ちょうどこの頃に、欧州航路から帰国した友人の船長が店にやって来たので、試作を食べてもらうと、「おや?これは私がかの国で食べたサブレーというお菓子に似ているぞ」と言われ、初めて「サブレー」なる言葉を知りました。どこか「三郎(サブロー)」と語呂が似ていて、親しみを感じたようでした。
鶴岡八幡宮を崇敬していた初代は、かねてから八幡様にちなんだお菓子を創りたいと考えていました。本殿の掲額の「八」の字が鳩の抱き合わせで、境内の鳩が子ども達に親しまれていたことから、このお菓子を鳩の形にし「鳩サブレー」と名付けました。「鳩サブレー」の誕生です。

ところが、バターがまだ庶民の舌には縁遠かった時代。食べ慣れない味にお客様はつかず、ほとんど売れませんでした。それでも、これからの時代はこの味が好まれるようになると確固たる信念を持っていた初代は、地道においしさを追求します。その甲斐あって、大正に入り、秋場隆一氏、竹内薫兵氏の二人の小児医博士から「離乳期の幼児食に最適」と推薦していただき、御用邸からもご用命をいただけるようなり、完成から10年以上経ち、ようやく皆様のお口に入るようになりました。

しかしその後、時代の波に翻弄され、関東大震災で店が全壊し、再建を図って再び活気を取り戻したものの、やがて戦争が始まり、長い間、お菓子が作れない時代が続きました。苦難の時代を乗り越え、戦後の高度成長期と共に、鎌倉も観光地としてにぎわいを取り戻します。

誕生から120年以上たち、おかげさまで「鳩サブレー」は多くの方に愛されるお菓子となり、鎌倉といえば「鳩サブレー」と言われるようになりました。しかし、手前どもはこれを「完成品」とは思っていません。初代が生み出した「ワリ」は守り、より美味しい「鳩サブレー」を作り続けること、それこそが豊島屋の、そして菓子屋のあるべき姿だと思っております。

出典 豊島屋公式サイト

豊島屋本店住所:神奈川県鎌倉市小町2-11-19

地図↓

豊島屋 本店 · 〒248-0006 神奈川県鎌倉市小町2丁目11−19
★★★★☆ · 和菓子屋

通販でお取り寄せ出来る鳩サブレー

けんちん汁

https://youtu.be/3UBPpyDZRfU?si=dS5FQczYJnd8U93K

けんちん汁の特徴

けんちん汁(けんちんじる、巻繊汁)は、汁物料理の一種である。
一般的な具材として、大根・人参・ゴボウ・里芋・こんにゃく・豆腐を胡麻油で炒め、出汁を加えて煮込み、醤油で味を調えたすまし汁である。
本来は精進料理であるため、肉や魚は加えず、出汁も鰹節や煮干ではなく、昆布や椎茸から取ったものを使用している。

神奈川県鎌倉市にて建長寺の修行僧が作っていた「建長汁(けんちょうじる)」がなまり、「けんちん汁」になったと言われている。このため、寺の入り口に店を構える「点心庵」は建長寺公認とされるけんちん汁を提供しており、地元の名物となっている。

出典 ウィキペディア

大船軒サンドウィッチ

大船軒サンドウィッチの特徴

大船軒が明治32年から大船駅で販売している日本初のサンドイッチ駅弁。

発売は明治32年、百余年を越えた鎌倉ハムを使用した大船軒の伝統の商品です。ボンレスハムサンドとチーズサンドの2種類の味を楽しむことができます。

出典 大船軒公式サイト

鯵の押し寿司

鯵の押し寿司の特徴

大船軒が大正2年から販売している大船駅の駅弁。

大正二年販売当時の姿そのままに小鯵の半身を使い、 伝統の合わせ酢でしめて押寿しにしました。

大船軒公式サイト

かまくらカスター

鎌倉土産の定番 鎌倉ニュージャーマンのかまくらカスター(鎌倉カスター)
海街diaryやジョジョの奇妙な冒険4部に登場する謎の有名お菓子。
1983年に発売以来ロングセラーとなり、カスタード入りドーム型スポンジケーキの元祖である。

かまくらカスターの特徴

ニュージャーマンの看板商品であるかまくらカスターは、創業15周年を機に誕生しました。
創業者である高野貞夫の、応援してくださるお客様への恩返しとして「本物を低価格でご提供したい」という気持ちから生まれました。
当時人気が出ていたシュークリームと、ニュージャーマンの人気商品のショートケーキの2つの美味しさを合わせられないかと試行錯誤した結果、かまくらカスターという形にたどりつきました。

カスターの“ここ”が魅力

カスターの魅力は、たっぷりと詰まったとろとろのクリームと、ふんわり柔らかなスポンジのハーモニー。甘さ控えめの優しい味。
カスタードとチョコレートの定番の味に加え、年間10種類以上もの季節の味を販売。
クリームに合わせてスポンジに工夫を加えるなど、定番商品でありながら新しさもお届けすべく進化を続けています。
やさしい甘さのカスタードクリームをたっぷり詰めました。

出典 鎌倉ニュージャーマン公式サイト

本店住所:神奈川県鎌倉市小町1-5-2

地図↓

鎌倉ニュージャーマン 鎌倉本店 · 〒248-0006 神奈川県鎌倉市小町1丁目5−2
★★★★☆ · デザート ショップ

通販でお取り寄せ出来るかまくらカスター

鎌倉野菜

https://youtu.be/EmcHRnu0y4U?si=WW2eHKdt5eCk_-Oe

鎌倉野菜の特徴

鎌倉と鎌倉に隣接する横浜市栄区の一部で生産される野菜を鎌倉野菜と呼んでいます。

消費者に早く届く新鮮さ、豊かな土壌と農家の技術に培われた種類の豊富さ、味の良さ、見た目の鮮やかさで知られます。

鎌倉野菜は京野菜のように、みぶな、とか京ニンジンとか、聖護院大根とか、特別な種類があるわけではありません。けれども消費地が近い鎌倉では、生食のサラダ向けのカラフルな野菜が多く作られています。近さを活かしてほとんどが仲卸を通さず、直接販売や直卸されます。こうして生産者と消費者の顔の見える地産地消、新鮮で安心できる「鎌倉野菜」が生まれています。

野菜も畑もイロイロなら、販売方法も場所も多様。畑以外でも住宅地の中で、雑貨屋の片隅で、直売スタンドがあって出会えたりします。地元のスーパーやレストランに直卸される分もあります。

販売の中心は何といっても「鎌倉市農協連即売所(レンバイ)」。通年で販売される鎌倉野菜の種類や量は市内最大級です。日本料理はもとより、イタリアン・フレンチなどのレストランのシェフが生産者に直接会って購入していきます。消費者のリクエストで新しい野菜を手掛ける農家もいます。

鎌倉で最も広い耕地・関谷の畑では、サラダ向けの鎌倉野菜がすくすくと育っています。比較的小規模の農家たちがお客さんに合わせて、レストラン向けに少量多品目生産あり、普段使いの固定した種類を作るスタイルもあり。少ない人で年間20種以上、多い人では120種類もの野菜を作ります。

多品目を作る農家は、レタスだけで10種以上、ニンジンだってオレンジ、黄、白、エンジとカラフルな野菜を通年で切らさずに出荷してるんだって! そんな畑は一畝オレンジのニンジン、次の畝は白いニンジン、次は赤い大根、次はむらさき、と畑自身もカラフル。関谷の「七色畑」と呼ばれています。

出典 コソガイ公式サイト

鎌倉ハム富岡商会

鎌倉ハム富岡商会の特徴

発祥は旧鎌倉郡(現横浜市戸塚区)ですが、鎌倉市の富岡商会でも明治時代より製造販売しています。

ペリーの来航から10年後の文久3年(1863年)、開港間もない横浜に英国人ウイリアム・カーチスが上陸しました。横浜山手に大規模な農園をつくり、居留地に住む外国人向けに西洋野菜を販売し、成功しています。
さらに彼は、明治7年(1874年)、鎌倉郡下柏尾村に開いた観光ホテルの裏に牧場をつくり、家畜を育て、ハム、ベーコン、牛乳、バターの製造を始めました。カーチスはハムの製法を秘密にし、日本人の工場への立ち入りを禁じていましたが、明治17年(1884年)、地震による工場の出火を村人が消火した恩に報いて、ついに秘伝の製法を村人に伝授。後にカーチスは日本を去りましたが、鎌倉の地には、ハムの製造者、技術者が確実に育っていきました。製造されたハムは鎌倉、箱根、横浜の一流ホテルに卸され、宿泊客の評判となり、発祥の地名から『鎌倉ハム』として広まっています。

当時の鎌倉ハム製造業者の一人に、現在の「鎌倉ハム富岡商会」の創業者、富岡周蔵がいました。
「鎌倉ハム富岡商会」の歴史は、駅弁の製造販売会社、大船軒の開業にさかのぼります。
大船軒で明治32年(1899年)、ハムサンドウィッチを売り出したところ、これが大評判となり、やがて多数の食料品業者からハムだけの注文がくるようになりました。そこで、富岡周蔵は、明治33年(1900年)、「鎌倉ハム富岡商会」として、ハム製造部門を独立させ製造を開始しました。「鎌倉ハム富岡商会」の百年を超えるハム作りの歴史は、まさにこの時にスタートしたのです。

明治から大正へと時代が進み洋風文化が取り入れられる中、ハム製造業を営むものは日本各地にその数を増やしていきます。
当時の記録によれば、「鎌倉ハム富岡商会」の製品は大正8年(1919年)の畜産工芸博覧会ではハム・ベーコンが名誉賞を受賞。さらに、大正11年(1922 年)の平和記念東京博覧会では金牌を受賞、大正14年(1925年)の平和記念東京博覧会においては名誉大賞牌を受賞するなど、着実にその品質が認められていきます。洋食文化がしだいに広まる中で、日本各地でもハムの生産が始まりましたが、「鎌倉ハム富岡商会」の生産高は全国一位を誇り、業界をリードする重要な責務をも担っていました。

発売当初のハムは、冬場の低温時に加工したものを夏場に出荷する季節商品でした。
富岡周蔵は、これを何とか年中出荷できないものかと考え、横浜の製氷会社の冷蔵庫を使ってハム製造をはじめました。しかし、遠い冷蔵庫まで運んでいくのは効率も悪く、鮮度も保ちにくいため、ついに大正10年(1921年)、自社工場内に冷蔵庫棟を建設。ハムづくりの先進国欧米の情報や進んだ技術を取り入れ、時代に先駆けて冷蔵庫利用に踏み切ったのです。電力利用の近代工場が鎌倉に出現したことは、電気がまだ一般に利用されていない当時、まさに「驚異」としかいいようのない出来事だったと伝えられています。
また同年、ロースハムを発売。このロースハムはヒット商品となり、贅沢品であったハムは、やがて全国の食卓へと広がっていきます。「鎌倉ハム富岡商会」は、このロースハムを基盤にして、その後の事業を大きく展開していきます。

大正12年(1923年)9月、関東大震災が起こり、他の工場は大きな打撃を受けました。しかし、冷蔵庫の被害を逃れた「鎌倉ハム富岡商会」は、この災難を近代化への絶好のチャンスと考え、最新の設備を備えた生産工場を建設。
この工場は、設備と衛生面において、全国でも屈指の工場として注目を集め、品質面でも変わらぬ高い評価を得ていました。
当時の「鎌倉ハム富岡商会」の評価を知るエピソードとして、昭和4年(1929年)に来日した「ツェッペリン号」の機内食として帝国ホテルが提供したメニューには“Kamakura Ham”の一品が記されています。
昭和になってからの「鎌倉ハム富岡商会」は、スライスドハム、ハムライスの素、チキンライスの素、ソーセージなど缶詰製造にも力を注ぎました。そして昭和13年(1938年)にはボンレスハムの製造を開始しました。
その後、成型器を使ったアイディア商品として角ボンレスハムを開発するなど、その製品アイテムは充実の一途をたどっていきました。

日本のハムの歴史とともに歩み続ける「鎌倉ハム富岡商会」。
人から人へ受け継がれてきた確かな技術とスピリットのもとでつくられる「鎌倉ハム富岡商会」の製品は、その後も多方面から高い評価をいただいています。
一流ホテルのプロフェッショナルからの絶大な信頼を得たことから、日本における本格的な国際イベント「東京オリンピック」や「札幌冬季オリンピック」で納入業者に決定。スポーツの祭典を「食」の分野からサポートし、「鎌倉ハム富岡商会」の美味しさを全世界の人々にアピールしました。その後、昭和46年(1971年)に新工場を建設し、無菌室など最新鋭の設備を備えました。

出典 鎌倉ハム富岡商会公式サイト

住所:神奈川県鎌倉市小町2-2-19 相模屋ビル1F
お問い合わせ:0467-25-1864

地図↓

鎌倉ハム富岡商会 小町本店 · 〒248-0006 神奈川県鎌倉市小町2丁目2−19
★★★★☆ · ハム専門店

通販でお取り寄せ出来る鎌倉ハム富岡商会


”旬”をお届け!JAグループ、食のインターネットモール。

鎌倉市のこと、もっと知りたい!

鎌倉市出身、ゆかりの有名人

著名な出身者

有坂美香(ゴスペル歌手)
アンジェリカ(シンガーソングライター、作詞家、作曲家、タレント)
飯田美心 (元子役、起業家)
井口綾子(グラビアアイドル)
伊地知潔(ASIAN KUNG-FU GENERATIONのドラム、ロックバンド)
石渡明(地質学者)
磯見輝夫(版画家、元愛知県立芸術大学学長)
井田真木子(ノンフィクション作家)
一色洋平(俳優)
井原芳隆 (元三井製糖社長)
今井敬(元経団連会長)
今井洋介(写真家)
岩崎俊男(実業家・キャピタリスト)
上野章子(俳人、随筆家、高浜虚子の六女)
上野水香(東京バレエ団 バレエダンサー)
内山圭(サッカー選手)
大橋マキ(フリーアナウンサー)
小笠原泰(経営コンサルタント、大学教授)
岡本行夫(外交官)
小澤昭博(読売テレビアナウンサー)
遠藤嘉人(俳優)
草上仁(小説家)
日下太平(ラグビー選手)
桑野光正(元ヤマダ電機社長)
小泉淳作(日本画家)
小泉博(アナウンサー、俳優)
神津健(衆議院議員)
後藤芳光(福岡ソフトバンクホークス球団社長)
小林完吾(アナウンサー)
境鶴丸(フジテレビアナウンサー)
佐々木葉(土木工学者、早稲田大学教授)
佐藤アサト(ナレーター)
佐野隼平(ミュージカル俳優)
紫雷美央(プロレスラー)
紫雷イオ(プロレスラー)
菅原一剛(写真家)
鈴木寛史(バレーボール選手)
鈴木涼美(作家)
関健一郎(衆議院議員)
立川祐路(レーシングドライバー)
鶴田真由(女優)
寺島よしき(予備校講師)
直崎人士(作家、写真家、音楽家)
長崎玄弥(英語教育評論家)
長島一由(元鎌倉市議会議員、元逗子市長、元衆議院議員)
中原茂[62](声優)
中山恒(工学者、東京工業大学名誉教授)
二階堂瑠美(競技麻雀のプロ雀士)
二階堂亜樹(競技麻雀のプロ雀士)
根本雄伯(ホルン奏者)
橋爪大三郎(社会学者)
服部陽介(フリーアナウンサー)
馬場憲治(タレント)
浜野秀昭(元俳優、実業家)
林美桜(テレビ朝日アナウンサー)
日野美歌(歌手)
平松千花(テレビ山梨アナウンサー)
福山芳樹(歌手)
藤岡真(作家)
藤村俊二(タレント)
前田美波里(女優)
ますいさくら(作家)
ますい志保(タレント)
真野あずさ(女優)
真野響子(女優)
三谷たくみ (歌手・元おかあさんといっしょうたのおねえさん)
三橋大樹(NHKアナウンサー)
皆川真里奈(ヴァイオリニスト)
宮川祥子(情報学者、慶應義塾大学准教授)
宮崎緑(アナウンサー、千葉商科大学教授)
守田誠司(東海大学医学部教授)
山ノ井髙洋(北海学園大学教授)
友里千賀子(女優)
養老孟司(解剖学者、東京大学名誉教授)
若田部健一(元・横浜ベイスターズの投手)
渡邊あゆみ(NHKアナウンサー)
松本悠里(元宝塚歌劇団専科女役)
朝美絢(宝塚歌劇団雪組男役)
星空美咲(宝塚歌劇団花組娘役)

ゆかりのある有名人

居住者

青木淳一(生物学者。稲村ガ崎に居住)
芥川龍之介(作家。由比ガ浜に居住)
阿部義晴(ミュージシャン)
荒川静香(プロフィギュアスケーター。幼少時に居住)
有島生馬(作家。稲村ガ崎に居住)
有島武郎(作家)
井川邦子(女優。扇ガ谷に居住)
石田ひかり(女優)
石塚友二(俳人。稲村ガ崎に居住)
石橋湛山(政治家。第55代内閣総理大臣、鎌倉郡鎌倉町の町議)
伊集院静(作家)
泉鏡花(作家)
宇佐美淳(俳優。大町に居住)
梅原龍三郎(画家)
江藤淳(作家。極楽寺、西御門に居住)
エリアナ・パヴロワ(バレリーナ。ロシアより亡命。1932年(昭和7年)七里ガ浜にバレエスクールを建設)
正親町公和(作家)
太田水穂(歌人)
岡村文子(女優。長谷に居住)
小倉遊亀(画家・文化勲章受章・鎌倉市名誉市民。山ノ内に居住)
尾崎左永子(歌人)
大佛次郎(作家)
小津安二郎(映画監督)
加瀬俊一(外交官・初代国連大使・鎌倉市名誉市民)
桂木洋子(女優。長谷に居住)
鏑木清方(画家)
唐木順三(歌人)
河口恭吾(歌手・シンガーソングライター)
川端康成(作家・ノーベル文学賞受賞者・文化勲章受章・鎌倉市名誉市民。浄明寺宅間ヶ谷、二階堂、長谷に居住。長谷には川端康成記念会がある)
蒲原有明(詩人。二階堂に居住)
菊地信義(装幀家。腰越に居住)
岸田劉生(画家)
国木田独歩(作家)
久米正雄(作家)
倉田百三(作家)
小林米珂(弁護士)
小林秀雄(文芸評論家。雪ノ下ほかに居住)
堺駿二(俳優。大町に居住)
堺正章(歌手・俳優・司会者。幼少期に住居)
佐佐木信綱(歌人)
佐田啓二(俳優。材木座に居住)
里見弴(作家。文化勲章受章・扇ガ谷に居住)
澁澤龍彦(仏文学)
島崎藤村(作家)
菅虎雄(独文学)
鈴木大拙(仏教学。文化勲章受章)
千家元麿(作家)
園池公致(作家)
高浜虚子(俳人。文化勲章受章・由比ガ浜に居住)
田島英三 (放射線物理学者。『日米原爆線量再評価検討委員会報告書』[64]での日本側委員長[65])
立原正秋(作家)
田中絹代(女優。鎌倉山に居住)
玉木正之(作家・スポーツライター)
田村隆一(詩人。稲村ガ崎に居住)
月丘夢路(女優。大町に居住)
鶴田浩二(俳優。大船に居住)
東郷慎十郎(篤志家。坂の下に居住)
内藤洋子(女優)
直木三十五(作家。稲村ガ崎に居住)
永井龍男(国文学)
永井路子(作家・鎌倉市名誉市民)
長洲一二(経済学・神奈川県知事。稲村ガ崎に居住)
中原中也(詩人)
長与専斎(医師。由比ガ浜に居住)
長与善郎(作家)
夏目漱石(作家。円覚寺塔頭に居住)
夏目雅子(女優)
夏八木勲(俳優)
西田幾太郎(哲学。文化勲章受章・稲村ガ崎姥ヶ谷に居住 記念歌碑がある)
西脇順三郎(詩人)
昇曙夢(露文学。稲村ガ崎に居住)
萩原朔太郎(詩人)
橋本明(ジャーナリスト)
橋本乾三(検事)
蓮田修吾郎(金属造型。文化勲章受章・鎌倉市名誉市民)
早見一十一(美容家。鎌倉市に居住)
林房雄(作家。名越、長谷、浄明寺に居住)
原節子(女優)
日守新一(俳優。小町に居住)
平山郁夫(画家。文化勲章受章・鎌倉市名誉市民)
深田久弥(作家。二階堂に居住)
福澤幸雄(レーシングドライバー、モデル)
藤沢周(作家、第119回芥川賞受賞、法政大学教授)
藤田泰子(女優。大町に居住)
星野立子(俳人)
前田青邨(画家・文化勲章受章。円覚寺境内に居住)
三浦光子(女優。二階堂に居住)
三橋健(日本の神道学者。「日本の神道文化研究会」主宰)
水木一郎(アニソン歌手)
水の江瀧子(女優。材木座に居住)
三井弘次(俳優。大船に居住)
みのもんた(タレント)
三好達治(詩人。稲村ガ崎に居住)
山口達也(タレント、元TOKIOメンバー)
山口淑子(女優。鎌倉山に居住)
山田ミネコ(漫画家)
山本五十六(軍人)
山本道子(作家、稲村ガ崎に居住)
山本容子(版画家・挿画家)
山本義正(著述家、山本五十六の子)
横山隆一(漫画家・鎌倉市名誉市民)
吉川文夫(鉄道研究家。鎌倉市在住だが2007年(平成19年)死去)
吉田秀和(評論家・文化勲章受章・鎌倉市名誉市民)
吉野秀雄(歌人)
吉屋信子(作家。長谷に居住。記念館がある)
笠智衆(俳優)

その他

鈴木保奈美(女優):神奈川県立鎌倉高等学校卒業
桑田佳祐(ミュージシャン):鎌倉学園高等学校卒業
中村拓志(建築家):神奈川県立七里ガ浜高等学校卒業
原由子(ミュージシャン):おばが鎌倉に住んでいる[66]。

マスコットキャラクター

牛若にゃん丸、源ポン太、静姫 – 鎌倉市のかまくら3R推進キャラクター
玉竜くん、タマナワくん、タマちゃん – 玉縄城築城500年祭のマスコットキャラクター
大船観音のんちゃん – 大船観音寺のマスコットキャラクター
落ち武者のおちむん – 鎌倉市非公認キャラクター

出典 ウィキペディア

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三浦郡
葉山町
高座郡
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二宮町
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中井町
大井町
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山北町
開成町
足柄下郡
箱根町
真鶴町
湯河原町
愛甲郡
愛川町
清川村

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