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埼玉県上尾市はこんなに素敵なところ!
上尾丸山公園、榎本牧場、原市沼の古代蓮、氷川鍬神社、八枝神社、どろいんきょ、馬蹄寺、少林寺、十連寺、相頓寺、戸崎の浅間塚..
こちらでは埼玉県上尾市の名所、人気の観光スポット、観光地、美しい自然景観、絶景、公園、神社、お寺などのパワースポット、文化遺産、歴史遺産、美術館、博物館、歴史的建造物、モダン建築などの特徴と魅力を動画、画像とともにご紹介します。
上尾市の名所、人気の観光スポット、観光地、美しい自然景観、絶景、神社、お寺、美術館、文化遺産、歴史遺産、歴史的建造物

ねえねえボンゾくん、埼玉県の上尾市ってどんなところなの?おすすめの名所や人気の観光スポット、素敵な場所を教えてくれる?

上尾市には素敵なところがたくさんあるよ!上尾丸山公園、榎本牧場、原市沼の古代蓮、氷川鍬神社、八枝神社、どろいんきょ、馬蹄寺、少林寺、十連寺、相頓寺、戸崎の浅間塚なんかがおすすめだね。それじゃあ、一緒に上尾市のこと、詳しく調べてみようね!
上尾市のおすすめグルメ、美味しいもの、お土産をこちらの記事で紹介しています。
上尾丸山公園
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上尾丸山公園を紹介します。
「水と緑の調和」をテーマに昭和53年に開園した総合公園です。
広大な敷地に大型遊具やアスレチックなどお子さんが満足すること間違いない公園です。
そして、さらに魅力なのが入園料がかからずに動物たちと会える事が出来る小動物コーナーの存在です。
令和元年6月28日に埼玉県こども動物自然公園からコツメカワウソの3姉妹が仲間入りしました。
その他に、園内を散策する遊歩道もあり、小川や滝もあるので、お子さん連れに限らず、年配の方や若いカップルにもオススメな公園です。出典 ファミーユチャンネル
上尾丸山公園の特徴
上尾丸山公園は「水と緑の調和」をテーマに昭和53年に開園した総合公園です。小動物コーナー、児童遊園地、バーベキュー場、自然学習館、大池などが訪れる人々を楽しませてくれます。小動物コーナーでは、人気のコツメカワウソやミーアキャットなどの可愛い動物たちが、来園者の皆様方をお出迎えいたします。入園料は無料です。
菖蒲田
色とりどりの菖蒲の花が、初夏の丸山公園を彩ります。またこの時期には、「あげお花しょうぶ祭り」も開催され、多くの来園者の方々で賑わいをみせます。菖蒲田に設けられた木道を歩きながら、美しい花菖蒲を心いくまでご堪能ください。
桜並木
春の訪れと共に園内がピンク色に染まります。この時期には「上尾さくらまつり」も開催され、多くの来園者の方々で賑わいをみせます。絶景をカメラに納める人、ランチタイムを楽しむ人、風に舞った一輪の花びらが杯に入りそれで一杯楽しむ人、など、楽しみ方は貴方次第です。
住所:埼玉県上尾市大字平方3326番地

榎本牧場
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榎本牧場の特徴
榎本牧場(Enomoto Dairyfarm)は埼玉県上尾市の荒川沿いにある乳牛を飼っている酪農の牧場です。
新鮮牛乳で作ったジェラートアイス・ヨーグルトの販売などをしています。
牧場では60~70頭の白と黒の斑模様の乳用種「ホルスタイン」を飼育していて、仔牛の体重は40~50kg、約2年半で体重600~700kgの成牛となり毎年のように赤ちゃんを産んで牛乳を出します。一頭ずつ電子タグでコンピュータで管理されており、毎日一頭から20~30kgの牛乳が24時間稼働の搾乳ロボットによって自動で搾られており、いつでも見学可能です。
乳牛の他にもニワトリ、チャボ、ミニブタ、ウサギ、モルモットなど多種の動物がくらしており、地元の方々による寄付のおもちゃの自動車や三輪車で遊ぶ事ができます。
荒川の眺めや自然を感じながら、ジェラートを食べてゆったりと。
上尾にあるあなたの知らない小さな北海道、「えのぼく」へ是非お越し下さい。
出典 榎本牧場公式サイト
所在地:埼玉県上尾市畔吉736−1
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原市沼の古代蓮
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原市沼の古代蓮の特徴
1990年代初頭の原市沼一帯は、ゴミの不法投棄によって荒れ果てていました。様々なゴミ、建築廃棄物、自転車、バイク、自動販売機までが捨てられていました。原市近隣の住民で、その惨状を看かねた人たちによって、数年をかけて、ゴミの撤去作業が行われました。なんとか沼周辺のゴミを撤去した後、戦前まで、沼で咲いていた古代蓮の花が思い出され、蓮の花を再生させることを思い立ちました。そこで原市沼に先駆けて古代蓮を再生させていた、行田市から蓮のタネを譲り受け、蓮の復活に挑み始めました。1993年のことです。蓮の育成を3坪ほどの蓮池で育成をはじめました。しかし、はじめの3年はうまくいかず、1996年におよそ90輪の蓮の花を咲かせることができました。その後、試行錯誤をかさねながら、現在、蓮池は20。敷地面積1700㎡(およそ500坪)になっています。毎年1万輪の蓮の花がさきほこり、1万人ほどの方々にご覧いただいております。
所在地:埼玉県上尾市原市2081−20
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氷川鍬神社
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氷川鍬神社の特徴
氷川鍬神社(ひかわくわじんじゃ)は、かつては上尾駅東口に降り立つと境内の木立が望見できたが、現在ではビルの陰になってしまっている。それでも駅から200メートルも歩いて行くと、喧騒の中の静寂空間に木立が見えてくる。
氷川鍬神社は、明治末期の神社の合祀(ごうし)以後の社名であり、古くは御鍬太神宮(おくわだいじんぐう)と称されていた。一般には「お鍬さま」と呼ばれ親しまれているが、江戸初期の万治のころ(1658~61年)創建されたともいわれる。伝承によると、3人の童子が鍬2挺と稲束を持ち、白幣(はくへい)をかざし踊り歩いて上尾宿に来て、童子たちはいずこにか消え失せたが、残された鍬を本陣の林宮内(くない)が祭ったという。まことに楽しい心温まる話であるが、宮内は幕末の人で、本陣の当主は林八郎右衛門であろう。童子の残した白幣を神幣(みてぐら)として納め、「群参(ぐんさん)日を追ておびただし」と伝承は伝えている(『新編武蔵風土記稿』・『御鍬太神宮略由来』)。
御鍬太神宮は上尾宿の鎮守でもあるが、境内には天満宮も祭られている。鳥居をくぐって参拝すると、右手に市指定文化財の「上尾郷二賢堂(にけんどう)碑記」と「雲室上人生祠碑頌(うんしつしょうにんせいしひしょう)」が建立されているのが目に付く。これが、江戸時代の小さな宿場町にしては極めてハイレベルな学びの場を提供した、かつての郷学の跡地であったことを証している(『上尾の指定文化財』)。
所在地:埼玉県上尾市宮本町1−14
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八枝神社
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八枝神社の特徴
埼玉県上尾市の西端、川越へと続く開平橋の近くに鎮座する八枝神社は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を御祭神とし、厄除招福・疫病退散の神様として、広く親しまれています。
当社にある獅子頭は「狛狗大神(はっくだいじん)」といい、人々は親しみを込めて『平方のおししさま』呼んでいます。年間を通じて、獅子頭の貸し出しをし、その地域に迎えて疫病退散・災厄消除を願う「ふせぎ」と呼ばれる行事が今でも行われています。
その信仰圏は地元の上尾地区をはじめ、北足立郡(現さいたま市・川口市など)・比企郡(現川島町・小川町など)・入間郡(現三芳町・越生町など)といった比較的近い地域や東京都内(足立区・練馬区・清瀬市など)にまで及んでいます。
また、毎年7月には埼玉県指定無形民俗文化財である『どろいんきょ』という奇祭が盛大に行われています。
出典 八枝神社公式サイト
所在地:埼玉県上尾市平方488
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どろいんきょ
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どろいんきょの特徴
「どろいんきょ」は埼玉県上尾市大字平方の上宿地区で、毎年7月の中旬の日曜日に行われている祇園祭で、夏祭りや天王様とも言われ、水を大量に民家の庭にまき、ぬかるんだ状態にして、白木の頑丈な隠居神輿を泥の中で転がしたりする全国でも大変珍しいお祭りです。
「どろいんきょ」という名称や由来についてはよくわかっていませんが、隠居した御神輿を担ぎだして泥だらけにしたとか、隠居した人たちが余興で担いだのが始まりとか言われています。
『土』と『人』と『神様』が一体となったお祭りで、その泥を浴びれば、家内安全・無病息災・悪病退散の御利益があると伝えられています。
昭和57年には上尾市指定無形民俗文化財、平成23年には「平方祇園祭のどろいんきょ行事」として埼玉県指定無形民俗文化財に指定され、現在に至っています。
出典 八枝神社公式サイト
場所:埼玉県上尾市平方488
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https://maps.app.goo.gl/WFZjeT6oeJYTRZRg9
馬蹄寺
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馬蹄寺の特徴
「ぐるっとくん」を「下宿公民館西」で下車すると、右手に大寺の山門が見えてくる。浄土宗の名刹(めいさつ)で、県指定天然記念物「モクコク」のある寺としても知られる馬蹄寺(ばていじ)である。
入り口には左右に大きな石造の地蔵尊があり、まず参詣者の気持ちを引き締めてくれるが、その傍らに「徳本(とくほん)」と刻し、花押(かおう)まで印(しる)した供養塔が目につくことになる。この辺りの寺院では余り見かけない石造物であるが、これは「徳本六字名号(みょうごう)供養塔」と称されるものである。「徳本」は紀州の人で念仏行者であるが、その平易な念仏信仰が各地で受け入れられたという。塔の下壇には「講中」と大書され、文化14(1817)年建立の文字もあるので、当時の平方村周辺で講が結成されていたことになる(『上尾市史』第9巻)。
山門をくぐり、「モクコク」を右手に見て本堂に進むことになるが、古刹といわれるごとく、広い境内を擁している。開山(かいさん)は、川越の名刹連馨寺(れんけいじ)と同じ感誉上人といわれ、天文(てんぶん)年中(1532から55)に再興されたと寺伝に記されている。この感誉上人は、当時後北条氏の配下で川越城将であった大道寺氏の甥であり、各地で多くの寺院を建立しているが、平方村にも寓居(ぐうきょ)し浄土の道場を開いたといわれる。これが馬蹄寺であるが、道場が開かれる以前から寺院が所在しているので、寺の創始は大変古いことになる(『新編武蔵風土記稿』)。
それにしても、馬蹄寺という寺名も大変珍しいものである。この寺名は、昔この辺りに住んでいた吾妻左衛門という人が、伯父の三輪庄司の菩提を弔うために「馬蹄庵」と号した草庵を建立するが、この名から付けられたという。この草庵では馬蹄観音を安んじているので、後に感誉上人が道場を開き寺院を再興してからも、馬を飼う近在の多くの人々から信仰されることになる(前掲書)。
同寺は江戸時代に将軍から15石の朱印状を受けているが、本尊は阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)で寺内にはほかにも多くの仏像が安置されている。いずれも江戸時代の作であるが、中には江戸初期の作とみられる木造阿弥陀如来と脇侍(きょうじ)像もある。古いものでは、正応元(1288)年銘の阿弥陀一尊種子(しゅじ)の石造物がある。モクコクの下には、市指定文化財の鈴木荘丹(そうたん)俳諧歌碑もあり、ほかにも境内の石造仏など見るべきものの多い寺院である(『上尾市史』第9巻)。
所在地:埼玉県上尾市平方2088
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少林寺
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少林寺の特徴
鎌倉の名刹円覚寺・東慶寺ゆかりの市内最古の寺院
国道17号の「久保」交差点から県道上尾・久喜線を東に700から800メートルも行くと、左手に少林寺(しょうりんじ)の山門が見えてくる。少林寺は臨済宗の寺院で、神奈川県鎌倉市にある円覚寺の末寺である。
同寺は江戸時代の初めに「門前村」という村名が生じたほどの大寺であり、鎌倉時代の正応元(1288)年創建という市域随一の古刹(こさつ)でもある。寺伝によると同寺の開山は仏源禅師(ぶつげんぜんじ)で、円覚寺の第二世を務めた高僧である。禅師は大休正念(だいきゅうしょうねん)大和尚とも称するが、中国の温州(うんしゅう)(浙江<せっこう>省)の人で、文永6(1269)年10月に来日し、正応2年に没している。ほぼ20年間に多くの寺院の創建にもかかわるが、鎌倉浄智寺も禅師が入仏供養を行ったものである。なお「仏源禅師」の名は、没後の朝廷からの諡号(しごう)である(『新編武蔵風土記稿』・『上尾市史』第9巻)。
少林寺の開山は当時の高僧であるが、開基も当時の有名人で、執権北条時宗の後室(こうしつ)である覚山尼(かくざんに)である。覚山尼は鎌倉の東慶寺の開基ともいわれ、第9代執権貞時の母である。同寺はこのように当時の名のある人物によって創建されているが、鎌倉期の様子を伝える資料は皆無であり、またその後の室町・戦国期の寺の変遷を伝える資料も、残念ながら全く残されていない(『上尾市史』第9巻)。
少林寺は慶安2(1649)年8月に将軍徳川家光から寺領10石の朱印状を受け、以後代々の将軍から朱印状が渡されている。ところが不幸なことに、幕末の文化3(1806)年2月14日に火災で本堂、庫裏(くり)などは焼失し、朱印状も一部を残し、烏有(うゆう)に帰している。このとき住持の要道と召仕の庄蔵が焼死しているが、火中を逃れたのは、数え年9歳の小僧1人であったといわれる。火災を免れたのは鐘楼と山門だけなので、古刹としての諸記録や仏像、仏具もすべて失われたことになる(『上尾市史』第3巻)。
文化3年の火災を免れた山門は、現在市指定の文化財になっている。四脚門(しきゃくもん)、切り妻造りの屋根で、棟高が約4.7メートル余り、比較的大きな建物で、参詣者に荘厳さを伝えてくれる。正面の大虹梁(だいこうりょう)という梁(はり)に「宝暦三癸酉歳」(1753年)と記されており、この年の建築物とみられる。また礎石に寛文11(1671)年の銘があるが、建築年を示す銘文のある山門は少なく、建築様式を示す建物としても貴重である(『上尾の指定文化財』)。
所在地:埼玉県上尾市西門前399
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十連寺
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十連寺の特徴
徳川家康の機知で名付けられた寺号
「ぐるっとくん」を「西中学校南」で下車して、西方向へ住宅地の歩いて行くと、十連寺(じゅうれんじ)の山門が見えてくる。山門前左側の石柱には、「ほしな山十連寺」と刻まれている。
「ほしな」とは変わった名称であるが、正式な寺号は「干菜山(ほしなさん)光明院(こうみょういん)十連寺」と号する浄土宗の寺院である。縁起(えんぎ)によると、慶長18(1613)年10月、鷹狩りの途次に徳川家康が立ち寄り、小庵であった堂の軒先に菜が十連ばかり掛け干されているのを見て、「『干菜山光明院十連寺』と号すべし」と命じたという。将軍職はすでに秀忠に譲っているとはいえ、大御所(おおごしょ)として時の最高権力者の地位にある家康の命名であり、大変珍しいということになる。それにしても、仏教言葉からの寺名でなく、「干菜山」とは軽妙で微笑ましく、すこぶる機知に富んだ大御所であったということになろうか(『新編武蔵風土記稿』)。
ところで十連寺には家康の書簡が残されており、内容はミカンを贈られたことに対する礼状である。あて先が不明で、内容も把握しにくい点もあるが、ここでも食べ物の名が出てくるとは、不思議な縁ということになろうか。一般に古い記録や文書類には、食べ物の名が出てくることはほとんどない。ところが十連寺の縁起には2つも見えており、大変楽しい話ということになる(前掲書)。
山門から本堂に向かっては、緑の多い境内地を歩むことになる。ちょっと深山(しんざん)幽谷(ゆうこく)の趣があるが、本堂は鉄筋コンクリートの堂々たるもので、本尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)像などが鎮座している。阿弥陀如来と両脇侍(きょうじ)像は江戸時代前期の作で、寄せ木造りである。十連寺は浄土宗の寺院なので、法然(ほうねん)上人(しょうにん)の立像(りゅうぞう)なども安置されている(『上尾市史』第9巻)。
本堂の左手奥の墓所には、市指定の文化財になっている柴田氏父子の墓がある。父の名は柴田七九郎(しちくろう)康忠(やすただ)、徳川家康の関東入国後、埼玉(さきたま)郡で5000石を給された家康の有力家臣である。康忠は文禄3(1594)年に没し、樋ノ口村(現久喜市)に葬られたが、後に子の康長(やすなが)によって移されたという。康長は曲折の後に家を継ぎ、寛永元(1624)年には大谷領3000石の地を与えられ、向山に陣屋を構えている。康長は寛永13(1636)年に没するが、十連寺の幕府朱印状はその子康久(やすひさ)の時代に与えられたものである。康久も同寺に土地を寄進している(『上尾市史』第3巻)。
所在地:埼玉県上尾市今泉156
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相頓寺
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相頓寺の特徴
竹林に囲まれた静寂空間に数々の市指定文化財を伝える
「ぐるっとくん」を「仲町」で下車し、30メートルほど西へ歩くと、そこは原市の市街を貫く南北の大通りである。この大通りを300メートルも南下すると、右手に目指す相頓寺(そうとんじ)の山門が見えてくる。100メートルほど歩いて山門に達するが、この山門は鍾楼(しょうろう)門で、上尾市周辺では余り見かけない珍しい建造様式である。山門をくぐり本堂に参拝すると、多くの市指定文化財を伝える寺院は、竹林と大樹に囲まれた静寂空間の中にある。
相頓寺は浄土宗の寺院で、草創は永徳2(1382)年、円蓮社聖満良順が開山といわれている。「永徳」の年号は北朝年号で、南朝と北朝が激しく争っていた時代の創立である。本尊の阿弥陀如来は市指定の文化財であるが、観音・勢至(せいし)の両脇侍(きょうじ)を従えた寄せ木造りの立像(りゅうぞう)である。像高は93.5センチメートル、宋風の服制を示し、鎌倉時代後半から末期にかけての作と推定されている。万治3(1660)年に、京仏師(ぶっし)が修理したという墨書銘が残されている(『上尾市史』第9巻)。
本堂の南東に地蔵堂があるが、ここに安置されている相頓寺三仏も市の指定になっている。中尊は木造延命地蔵菩薩半跏(はんか)像、右に木造閻魔(えんま)王座像、左に木造奪衣婆(だつえば)座像が配されている。この大型の三仏は、元は廃寺になった地蔵院にあり、明治2(1869)年に移されたといわれる。地蔵菩薩の像内に、この地の領主西尾小左衛門尉(こざえもんのじょう)(西尾隠岐守吉次)が文禄5(1596)年3月24日に開眼したとの書き付けが残されていると、幕末期編さんの『新編武蔵風土記稿』にも記されている。像の作風やこの書き付けから、地蔵菩薩は桃山時代の作と見られるが、閻魔王や奪衣婆は江戸時代前期の作といわれている。なお、この地蔵堂には15点の絵馬が奉納されているが、これも市指定の文化財である。延宝8(1680)年銘の市内最古のものもあり、見るべきものの多い絵馬群である(前掲書)。
本堂の裏側に歴代住職の墓所があるが、その一角に「六字名号(ろくじみょうごう)板石塔婆(いたいしとうば)」が立っている。これも市指定の文化財であるが、「南無阿弥陀仏」と六字名号が大きく彫られ、紀年銘の永徳2(1382)年も下部に読みとることができる。寺伝によると、この文字は開山の良順上人の書といわれ、永徳2年は相頓寺草創の年でもある。市内には六字名号の板碑は10基あるが、この塔婆は寺院の草創年と結び付く大変珍しいものである(前掲書)。
所在地:埼玉県上尾市五番町14−2
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戸崎の浅間塚
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戸崎の浅間塚の特徴
浅間塚は、一般には「富士塚」ともいわれ、江戸時代後半から江戸を中心とした地域で造られるようになった塚です。これは当時流行した富士浅間信仰によるもので、富士山参詣が難しいことから、女性や子どもでも簡単に参拝ができるように、居住地の近くに富士山を模した塚を祭るという趣旨で造られたものです。特に埼玉県東部地方の富士塚では、「初山」と呼ばれる民俗行事と関連があります。この初山行事は、7月1日に生まれて間もない子どもを富士塚にある浅間神社に参拝させ、子どもの健康を祈願するというものです。
「戸崎の浅間塚」は「浅間様」といわれる富士塚です。高さ約4.8m、直径約25mの円形の塚で、市内最大級の富士塚です。築造年代は不明ですが、19世紀前半と考えられます。この塚と塚上にある浅間神社は、戸崎村の創始伝承の中で開発領主とされる長沢家が所有し、塚で行われる行事を祭主としてつかさどっています。現在は、塚上だけに社殿がありますが、以前は塚下にもあり、塚上を高浅間、塚下を下浅間といいました。当時は、高浅間を男が、下浅間は女が参拝するものだといったそうです。
毎年7月1日には、前述の初山行事を長沢家と、その直接の古い分家といわれる3軒、それに挟み箱持ち役の1軒を加えた5軒の家で執行しています。参拝者は、市内旧大谷村の範囲とこれに隣接する大宮市の一部地域の人が多く、初山で参拝する子どもには、祭主が肌着の後ろ襟の内側に判子を押します。
このように「戸崎の浅間塚」は、独特な歴史的背景と民俗的背景とを持った塚であり、上尾市とその周辺地域の民俗信仰を考える上で重要な民俗文化財といえます。
所在地:浅間神社(上尾市戸崎)
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